楠目城(くずめじょう)
楠目城の基本情報
通称・別名
- 山田城
所在地
- 高知県香美市土佐山田町楠目字楠目(私有地)
旧国名
- 土佐国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 山田氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 山田氏、長宗我部氏
廃城年
- 不明
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(楠目城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
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楠目城の解説文
[引用元:Wikipedia「楠目城」の項目]
楠目城(くずめじょう)は、高知県香美市土佐山田町楠目字楠目にあった中世の日本の城。別名山田城。「楠目城跡」として香美市指定史跡[1]。
概要
楠目城は城山(標高122.3メートル)の山頂に位置している。山頂に詰の段を構えている。土佐山田氏の居城として知られるが、築城者も築城年も不明である。
歴史
築城起源は不明。鎌倉時代に中原氏による築城ともいわれているが、定かではない。土佐山田氏は鎌倉時代、宗我・深淵郷の地頭職であった、中原氏の子孫といわれている。香宗我部氏と同族である。
永正5年(1508年)、城主の山田元義は本山養明らとともに岡豊城の長宗我部兼序を討つ。
天文18年(1549年)、長宗我部国親は山田城攻略を行う。元義は国親によって放逐され、山田城は落城した。
遺構
- 城山詰の段、北面の土塁
- 二の段の南下方に2つの段があるが、開墾した際に破壊されているが、その下、二の段下から西方の茶ヶ森にかけて幅2-6メートルの堀がある。
- 詰の段下に北方からの攻撃に備えたものとみられる堀がある。落差10メートル。最大幅は6メートル。
交通
- 土佐山田駅の北東1.5キロメートル
参考文献
- 『四国の城』深訪ブックス[城8]、小学館、1989年11月10日
- 『日本城郭大系 第15巻 香川・徳島・高知』、新人物往来社、1979年12月15日
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楠目城の口コミ情報
2021年10月02日 刹那F精鋭渡島守【元親】
楠目城
登城禁止です。入り口の民家の方が町役場届けてます。山には登っていろいろとされるらしくて迷惑しているとのことです。皆さんお気をつけください。登城しようと話しかけたら強く言われていました。
2016年09月01日 尾﨑藤兵衛尉政儀
楠目城
縄張り図を見ながらまわると楽しめます。これほど良好な遺構が残っている中世山城は是非とも手を入れてほしい。空堀や切岸、土塁など写真では伝えきれない迫力があります。個人的には県内の山城の中で最も楽しめました。これからの季節に山城ファンのかた、足を運んでみてはどうでしょうか。
2016年05月28日 コロ助
楠目城
土佐山田駅前のインフォメーションでパンフレットが無いか尋ねたら、係りの方が山田城をご存じなくパンフどころか知名度も無し。情報は得られませんでしたか、インフォメーションはアンパンマンのキャラがたくさんいて可愛く、係りの方も親切でした。
駅から迷わなければ徒歩25分程ですが、登城口が分からずグルグルしました。
鏡野中学校を通り越し、神社の前を通過して民家脇の細い道に簡素な説明板があります。その道を上がって行くと着けますが、あまりの道の細さに戸惑って引き返すと私の様にさ迷うはめになります。
階段の上に小さな祠がある所に出たら、道なりに西に行くと堀切・空堀。
道は無いですが祠の横がなんとなく登れそうだったので上がって行ったら、土塁に囲まれた曲輪に。その曲輪の北西に虎口があり、出ると大堀切。そのまま北に進むと、また土塁に囲まれた曲輪があります。
城域内、全く案内板も道標も無く、軽く迷子。上の方は雑木林で下の登城口近くは竹藪なので、竹の見える方に歩いて行ったら帰れました。良い子の皆さんは、こんな真似はせず、きちんと下調べをして登りましょう。