甘崎城(あまさきじょう)

甘崎城の基本情報

通称・別名

天崎城、古城、岸の城、荒神城

所在地

愛媛県今治市上浦町甘崎

旧国名

伊予国

分類・構造

海城

天守構造

不明

築城主

越智氏

築城年

天智天皇10年(671)

主な改修者

主な城主

越智氏、今岡氏、村上氏、藤堂氏

廃城年

慶長13年(1608)

遺構

曲輪、腰曲輪、岩礁ピット、石垣、土塁

指定文化財

県史跡(甘崎城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

木ノ浦城(愛媛県今治市)[7.1km]
能島城(愛媛県今治市)[7.2km]
賀儀城(広島県竹原市)[11.7km]
因島村上氏城館(広島県尾道市)[12.6km]
小頃子城(広島県豊田郡)[13.2km]
来島城(愛媛県今治市)[16.2km]
三原城(広島県三原市)[17.6km]
余崎城(広島県尾道市)[19.3km]
鳴滝山城(広島県尾道市)[20.1km]
高山城(広島県三原市)[20.5km]

甘崎城の解説文



甘崎城(あまざきじょう)は、愛媛県今治市上浦町甘崎の古城島にあった日本の城(海城)。別名古城、岸の城、荒神城[1]。愛媛県指定史跡[2]

概要 

越智氏によって築かれた日本最古の水軍城とされ、伊予国大三島東端である瀬戸甘崎の海上に位置する島城であり、村上水軍の拠点の一つ。

歴史 

古代では大山祇神社の東方鎮護として機能した島だが、古名は「アマノサキ」で、アマは海人を、サキは防人の意を指し、鎌倉期に海人(海武士)を取り締まるために城砦が築かれた(海武士から警護する)ことから始まり、由来はそこからきている。

13世紀の元寇をきっかけとして、海武士の取り締まりから一転、海上交通の取り締まりをする役割を担い経て、南北朝期から戦国期にかけては村上水軍が東から下って来た船舶を捕捉して積荷を改め、通行税(関立)を徴収する拠点に至る。この税を生活の糧とした。

海賊停止令が出た後の17世紀末にも当城はドイツ人に記録され、認知されるに至っている(後述の「海中縄張り」を参照)。

歴代城主は、三島村上水軍時代では、来島村上氏の4代村上通康、その後を家臣の村上吉継(16世紀前半)、豊臣秀吉が瀬戸内海の覇権を握ると藤堂高虎の属城となり、その従弟・良勝が城主となる[3]。慶長13年(1608年)の藤堂高虎の移封によって廃城となった。

海中縄張り 

当城の最大の特徴として、陸繋島という地理上から潮が引くと島に至るまでの陸路ができ、幾重にも石垣が築かれているが、満潮時には没し、海中縄張りとなった。従って、潮が干した時のみ役割を担う石垣(時刻によって陸路が形成された時の備えとしての防御)である。この珍しい光景から、元禄4年(1691年)、この沖を航行したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが帰国後に『日本誌』において、「水中よりそびゆる保塁あり」と記述を残すこととなる。

城がある古城島が、干潮時に160メートル離れた大三島と陸続きになることは「海割れ」と呼ばれるが、その頻度は年数回のみとされる。石垣は廃城となった後に多くが持ち去られ、基礎部分のみが残るだけの部分が多い。

参考文献 

  • 【書籍】「 海城の様相と変遷 」 - 『海城』[第24回 全国城郭研究者セミナー(2007年8月5日開催)]における同タイトルの報告を論考にしたもの。
  • 森本繁 『村上水軍全紀行』 新人物往来社 2009年 ISBN 978-4-404-03577-6 pp.54 - 55
  • 『戦国最強の水軍 村上一族のすべて』 『歴史読本』編集部 編 新人物文庫 2014年 ISBN 978-4-04-600264-8 p.231

甘崎城の口コミ情報

2024年08月26日 久松胆振守西門左衛門️
足洗場[甘崎城  その他]

綺麗な足洗場が整備されていますが、2024.8.20の大潮当日は水が出ませんでした。車であれば足洗い用の水は用意して行くことをお勧めします。

2024年06月23日 生駒讃岐守江現蔵✿
水場城[甘崎城  周辺城郭]



城友さんと待ち合わせの甘崎城の海割れまで少し時間があったので、近くに城は無いかと検索してみた所、水場城が見つかり登ってきました。

リア攻めマップの甘崎城駐車場スペースを利用、バス停水場から南に入り、荒神社の雨上がりで滑りそうな石段を登ると境内の上に曲輪と主郭があるお手頃山城です。

歴史詳細不明の城ですが、曲輪をぐるっと一周出来、その上に本丸もあり、帰りに近くの明光寺にある海賊衆・来島村上氏を支えた一族の有力者である村上吉継の墓を見て30分の散策、甘崎城の待ち時間のある方にオススメします。

2024年06月01日 noble権中納言弥勒菩薩
明日城[甘崎城  周辺城郭]



甘崎、能島メインの日に近隣城郭調査にて。

“あしたじょう”??
これは面白そう。

と、思って行ってみたところ、

“あけびじょう”
でした…

大三島には大山祇神社、そして村上海賊絡みの小砦が結構あります。
ここ、麓の説明看板によると、縄張りもしっかりと残っているようなので是非登ってみたかった…
のですが…

諦めました。
ネット情報によると、地元の人でももはや登道もない、と言っている、と情報が書いてありました…

また、周囲をざっと一回りしてみましたが、結論としては…

『こんな急斜面ド藪の山、登れないよ!!』

逆に言えば、良く説明看板建ててくれたな
という感じです。
仮に無理遣り登っても、もはや城域内も藪でさっぱり分からない状態でしょうね。

いつか登ってみて遺構を確認したいです。

2024年05月26日 やまてつ伊予守
甘崎城



大潮の時期の干潮時にしか歩いては渡れません。貝殻や海藻類が多いので足元に注意してください。城友さんができました。

2023年11月30日 RED副将軍
甘崎城



村上水軍の拠点であり、後に藤堂高虎により改修された海城🏯

オススメ度 ★★★★★

671年に越智氏によって築かれた国内最古の水軍城とされます。
663年の白村江の戦いにおいて倭国と百済の連合軍は唐軍に大敗したため、唐軍の侵攻に備えた海防のため築かれました。
甘崎(アマサキ)は海人(アマ)と防人(サキモリ)からが由来で、海賊からの警固の意味の様です。
その後、中世には村上水軍の拠点となり、来島村上氏の村上吉継などが在城したとされ、海上輸送と警護を生業とし海上交通を掌握しました。
1600年、関ヶ原の戦い後に今治に入封した藤堂高虎は今治城の支城として石垣造りに改修し、弟の藤堂大輔を城主としました。
1608年に藤堂高虎は伊勢国安濃津へ転封となると廃城となりました。

見所
大三島の沖合の古城島に築かれています。
三段の郭がある様ですがヤブっており、周辺の石垣、列石、岩礁ピットが見所となります。
城域南に石垣が残り算木積みの隅石垣が見事です。
城域西にはコの字の列石が残り、北東には二列の列石が残っています。
船を停留させるための柱穴とされる岩礁ピットが至るところに残っており、特に城域東側が明瞭に認められます。

行き方は、訪城難易度MAXの海城としても有名で大変です。
大潮の干潮時のみ海割れにより歩いて渡ることが出来ます。水深が浅いので船の運行は無く、海に入るので夏期に限定されます。
当然、天気に左右され、休日と合わせる必要もあるので計画的な訪城が必要です。
また、浅瀬が年々流されており完全に道ができる回数は減っていると地元の方が教えてくれました。
城域は鋭利な岩肌や牡蠣の殻が散乱して危ないです。沢登り用のシューズで訪れました。

写真
①②城域南側の石垣
③岩礁ピット
④城域北側
⑤⑥列石
⑦海割れ
⑧遠景

2023年06月15日 つか征夷大将軍
伝・村上吉継の墓[甘崎城  碑・説明板]

来島村上家の重臣で甘崎城主である村上吉継の墓と伝えられているそうです。明光寺にありますが、お寺内には説明が無く、お寺前にあった村上氏関係の看板の写真を頼りに見つけました。

2023年06月06日 美酒乱☆桃太郎伊予守
甘崎城



6/5 16:20駐車場に到着。5〜6台分のスペースがあります。1キロ程北に道の駅があり縄張り図のコピーをくれるそうです。50m程で下に降りる階段があり、少し歩きにくい石プレートを南に100mくらい歩くとエンゼルロードが出現する場所へ行けます。甘崎城まで歩く途中には、石に隠れたタコやウニを発見することもあり、島へ渡って貝を取っている人も何人かいました。

1時間くらいかけて、島の周りをゆっくりと歩きました。岩礁ピットや、崩れ流された石垣、復元図から想像される桟橋、正門、主郭などを確認しながらぐるっとまわり帰路につきました。島の北側から西にかけてフジツボが付着した岩が多いのでマリンシューズを用意しておくと便利です。海割れが年に数回とあって、本日は30人くらいの見物客がいました。主郭へは、東側から岩場を登り50m程歩くと行けますが、海鳥の巣と化しており先人が口コミされていた通りの状態でした。

2023年04月22日 た〜坊 対馬守
御串山城[甘崎城  周辺城郭]

連郭式
住所:愛媛県今治市大三島町宮浦
縄張規模:北120×40、南240×30
遺構:北 8曲輪、堀切
   南 6曲輪、土塁、堀切
越智善五郎通重居城(伝)

2023年04月22日 た〜坊 対馬守
明日城[甘崎城  周辺城郭]



別名:阿計城
住所:愛媛県今治市大三島町明日
遺構:8曲輪、堀切、馬出、土塁、五輪塔
明日兵庫守築・居城

2020年08月20日 KAZ左大臣正勝
北の曲輪[甘崎城  遺構・復元物]

入り口には虎口っぽいものがあり大手側を少し降りた所には、小型の曲輪っぽいものも、ありました(^-^)北側の曲輪自体は、鷺の巣になってる様で糞まみれで、撃退されました(≧∇≦)

2020年08月20日 KAZ左大臣正勝
甘崎城 登城口[甘崎城  その他]



ここは大潮の時は、ぜーったい行くべきお城だと思います(^-^)

海を歩いて渡る際のワンポイント日の出前及び日没後には渡らない事!理由は海の色が見えないからです。だいたい『引いて来たなー』って時に写真の様に海中の砂(砂州)が現れますがいくら引いても、登城口から真っ直ぐ砂州には向かえません。

登城口より100mぐらい北に移動した所から渡るのですが、昼間なら浅い所が判別出来るのですが、暗いと判別が難しいからです。渡る際のスケジュール立案時は【潮位表 鼻栗瀬戸】で検索すれば参考になると思います。

今日、自分も参考にしましたが、時間はほぼ合ってる感じでした*\(^o^)/*渡る際の深さは、潮位表の数字プラス15センチって所でした。砂州の高さが変化しなければ参考になると思います(^-^)

2019年06月25日 石工集団穴太衆【兒】
甘崎城

今年もやって来た!夏と言えば甘崎城☆上陸作戦!2019年の海割れ予想日♪

7月2日 15時53分
7月3日 16時36分
7月4日 17時21分
7月5日 18時07分
7月6日 18時57分
7月31日 15時39分

8月1日 16時25分
8月2日 17時11分
8月3日 17時57分
8月29日 15時26分
8月30日 16時12分
8月31日 16時56分

上陸の際の服装は濡れても大丈夫な服装で靴は足首まで固定されてるビーチサンダルかメッシュ生地のスニーカーで滑りにくい靴底が最適です

2018年08月17日 織田上総介晃司
甘崎城

[追記]
海割れで歩いて渡れる。
ということは海の底は砂地。
投げ釣りをされる方はここで釣りをすると根掛かりはしません。

甘崎城(古城島)の前で投げ釣りをして25cmをはじめ5匹のキスが釣れました。

2018年06月17日 織田上総介晃司
甘崎城

年に数回の海割れの時に上陸。

数台停めれるスペースと、足洗い場があるのはうれしい。トイレはありません。

サンダルか長靴は必要。
岩場は滑りやすいので注意。
山頂の曲輪を見るにはさらにトレッキングシューズを持参してください。

大三島は国宝や重要文化財の鎧や刀を所有する大山祇神社があり、多々羅温泉があり、甘崎城も含め半日は観光できます。

「大漁」の海鮮丼は有名ですが行列覚悟。
「よし川」のジャンボエビフライ定食もお薦めです。

2017年05月04日 とくちゃん
甘崎城

4/30に初登城しました、19:02の干潮を狙って、運良く海割れで上陸できました。
近隣の鼻栗瀬戸の潮汐表で+17㎝でした。

実際には日暮れ暗くなって来たので、干潮の30分前に上陸しましたが最大でもくるぶしより少し上くらいの水位でした。

駐車スペースもあり、足洗い場もあって便利です、その後は近隣の多々羅温泉で疲れを癒すのも良いと思います。

2014年07月31日 筑後守sdkfz70
甘崎城

[サマーフェスタinかみうら] 歩いて甘崎城へ行く海上ウォークが8/10にありますので参加予定です。

甘崎城の周辺スポット情報

 石垣(遺構・復元物)

 舟隠し跡(遺構・復元物)

 南の曲輪(遺構・復元物)

 北の曲輪(遺構・復元物)

 伝・村上吉継の墓(碑・説明板)

 小海城(周辺城郭)

 多々羅城(周辺城郭)

 尾之部城(周辺城郭)

 御串山城(周辺城郭)

 明日城(周辺城郭)

 水場城(周辺城郭)

 駐車スペース(駐車場)

 足洗場(その他)

 甘崎城 登城口(その他)

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