聖通寺城(しょうつうじじょう)

聖通寺城の基本情報

通称・別名

聖通寺山城、宇多津城

所在地

香川県綾歌郡宇多津町平山

旧国名

讃岐国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

奈良元安

築城年

応仁年間(1467〜1469)

主な改修者

主な城主

奈良氏、仙石秀久、尾藤知宣、生駒親正

廃城年

天正16年(1588)

遺構

曲輪、土塁、切岸

指定文化財

再建造物

石碑(聖通寺山城)

周辺の城

丸亀城(香川県丸亀市)[4.7km]
城山(香川県坂出市)[5.9km]
高屋城(香川県坂出市)[6.4km]
塩飽勤番所(香川県丸亀市)[9.2km]
笠島城(香川県丸亀市)[9.5km]
垂水城(香川県丸亀市)[9.5km]
多度津城(香川県仲多度郡)[9.7km]
甲山城(香川県善通寺市)[11.4km]
黄峰城(香川県高松市)[12.1km]
天霧城(香川県仲多度郡)[12.8km]

聖通寺城の解説文



聖通寺(しょうつうじ)は、香川県綾歌郡宇多津町にある寺院。真言宗御室派に属する。山号は壺平山。本尊は沖薬師如来と称する薬師如来[1]。さぬき三十三観音霊場三十一番。

歴史 

伝承によれば、天平年間(8世紀半ば)行基によって釈迦院として創立され、貞観10年(868年)、聖宝(理源大師)が再興して寺号を自らの名から聖通寺宝光院と改めたという。本尊の石造薬師如来像(沖薬師如来)は、寺伝によれば聖宝が当寺を再興した際、漁師の網にかかって海中から引き揚げられたものとされ、像にはフジツボが付着している[2]

寺は坂出市と宇多津町にまたがる聖通寺山(標高117.8メートル)の西麓に位置する。聖通寺山は、もとは瀬戸内海に突きだした岬であったとされ、旧石器時代から人が生活していた。頂上には積石塚古墳があり、室町時代には聖通寺城が築かれた[3]

境内 

  • 本堂:石造薬師如来像
  • 大師堂:中央に弘法大師、向かって左に理源大師。同右に愛染明王坐像、同右脇陣に釈迦如来坐像
  • 観音堂(重文収蔵庫):千手観音立像
  • 不動堂:観音立像、両脇に不動明王立像と毘沙門天立像
  • 弁財天祠
  • 鐘楼
  • 客殿・納経所

文化財 

重要文化財 

  • 木造千手観音立像:宇多津町にある唯一の国の重要文化財。針葉樹材の一木造り、漆箔仕上げ、高さ185cmの像。頭上に11面の頭上面と阿弥陀の化仏(けぶつ)を表し、合掌手を含めて42臂とする通例の千手観音像である。寺伝では平安初期に空海(弘法大師)の自作とするが、両脚部などに翻波式の衣文がみられることから、平安中期(10世紀頃)の制作と推測されている。頭上面と脇手は江戸時代の後補。もともとは、宇夫階神社(町内西横丁)の別当東端山蓮花院神宮寺の本尊が、明治維新の廃仏毀釈で神宮寺が廃寺になった際に、移安になったとされる[4][5][6]。昭和30年2月2日指定

宇多津町指定有形文化財

  • 本堂:承応2年、本瓦葺入母屋造り。昭和53年3月31日指定[7]
  • 石造薬師如来像:像高1.15m。海中より引き揚げられたとの伝承で「沖薬師」と云われている。昭和53年3月31日指定
  • 木造釈迦如来坐像:榧材の一木造り、像高77.8cm、平安時代前期(10世紀)作とみられる。平成3年12月10日指定

交通アクセス 

JR予讃線宇多津駅から東に1㎞進んだ聖通寺山の西腹に位置する。宇多津駅より徒歩15分。

前後の札所 

さぬき三十三観音霊場
30 圓通寺 -- (1.5km)-- 31 聖通寺 -- (4.0km)-- 32 龍光院

聖通寺城の口コミ情報

2024年07月26日 小太郎左衛門督南畿道19國守
聖通寺城



中心部は空き地となっており、展望台がある。石碑を藪の中に見つけたが、特に遺構は発見できなかった。同所までは、舗装道路があるが、細く対抗は困難で、直近300m程は徒歩にて進行。7月24日情報。

2024年05月27日 そうざえもお備中守
聖通寺城

車で向かう場合、南側からよりも北側から常盤公園に向かう方が二車線が多いです

2023年06月03日 大納言Z周防守369
聖通寺城

聖通寺山に自動車で登るルートは2つ。坂出市側(北側)から塩竃神社の前を通るルート。もう1つは、宇多津町側(南側)から聖通寺の前を通るルート。南側は道幅が狭いので、北側からの方が優しい。

山道の途中に「ゆるぎ岩」を示す看板があるので、その方向に行けば本郭とゆるぎ岩に行けるが、舗装されているものの、凸凹道の悪路なので自動車で直接行く場合は注意すること。一応、本郭に自動車の駐車スペースのような平地があるが、駐車場なのかよくわからない。なお、ゆるぎ岩は本郭から少し東に下った所にある。

自動車で登る場合は、常盤公園の駐車場から本郭まで舗装された道があるので、徒歩で行った方がいいだろう。徒歩7,8分程度。

なお、本郭にも展望台があるが、常盤公園(平山城跡)からの方が眺めは良い。

2023年06月03日 大納言Z周防守369
積石塚古墳[聖通寺城  寺社・史跡]



直径12m、高さ約2mの全国的にも珍しい積石による円墳。

4~5世紀古墳時代前期に北方民族が故郷を忍び、眺望のよい場所に埋葬した豪族の墓とされているが、一説には戦国武将・仙石秀久の投石によって造られたとも云われている。近くにある「ゆるぎ岩」とも関連があるのかも?

いずれにせよ、この場所に平山城が築かれたのは事実である。

2023年06月03日 大納言Z周防守369
平山城[聖通寺城  周辺城郭]

築城年代は不明だが、室町時代中頃に奈良元安によって築かれたという。

秀吉の四国征伐の後、仙石秀久が入城したが戸次川の合戦での大失態により改易。

関ヶ原合戦の後に領主となった生駒親正は高松城を築いたので廃城となった。

2023年06月03日 大納言Z周防守369
ゆるぎ岩[聖通寺城  寺社・史跡]



10トンもある巨岩を道具を使わずに素手で動かせるそうです。

2022年09月25日 やまてつ伊予守
聖通寺城



常磐公園になってます。山頂近くまで道路もありますが、城跡(石碑)のところまでは雑草が生い茂っています。石碑も叢に埋もれてました。

2022年04月12日 RED副将軍
聖通寺城



細川四天王のひとり奈良元安の居城。
西讃岐統治の拠点でした。

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

管領細川氏の馬廻りをしていた奈良元安が、高屋合戦における武功により鵜足・那珂を拝領し、応仁年間(1467年〜1469年)に築城した奈良氏の居城。細川京兆家の四天王と称されていました。

1582年、長宗我部氏の讃岐侵攻により敗走。当主の奈良元政は勝瑞城へと逃れましたが中富川合戦で討死。羽柴秀吉による四国征伐の後、仙石秀政が入城しましたが戸次川合戦の敗戦により失脚。1587年に代わって生駒親正が入城しますが、1590年に高松城を新たに築き移ったため廃城となった様です。

見所
展望台がある北郭、本丸と推定される中郭、そして南郭の3つのピークで構成されていますが、遺構はほぼ消失しています。
主郭の切岸、主郭下を巡る帯郭が確認できる程度です。
北峰の積石塚古墳は仙石秀久軍の投石によってできたという伝承がありますが、多分違うと思います。

2021年05月20日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
聖通寺城



香川県の坂出市にある聖通寺城☆城郭からは備前、備中国と瀬戸内海が望める立地にあります☆瀬戸大橋を岡山側から渡る時に正面に見える独立山上にあり讃岐国への玄関口に☆イカにも〜☆といった場所にあります☆

聖通寺城は香川県の綾歌郡宇多津町と坂出市にまたがる聖通寺山に築かれた城郭になります☆室町時代に管領・細川氏の馬廻りをしていた奈良氏が高屋合戦における武功により鵜足・那珂の二郡を賜りました☆奈良太郎左衛門元安が南北朝時代に聖通寺山に城を築きました☆これが始まりになります☆

戦国時代には四国制覇と讃岐攻略を目指す長宗我部元親は1万2千の軍勢で聖通寺城を攻め入りました☆往時、勢力が衰えていた奈良氏は城を捨て勝瑞城の十河存保を頼り敗走します☆豊臣秀吉の四国征伐後にこの讃岐国は仙石秀久に与えられました☆が…しかし仙石秀久は豊後国【戸次川の戦い】で島津軍に大敗を喫したため所領を没収※その後、仙石秀久は名誉挽回していきます☆

代わり生駒親正が讃岐国の領主になります☆生駒親正は初め引田城を拠点にしましたがココ聖通寺城に本拠を移しました☆その後生駒親正は新たな拠点に高松城を築き聖通寺城は廃城となりました☆

聖通寺山の標高122mに城郭は存在します☆南北に伸びる城郭は北峰・中峰・南峰から成ります☆江戸時代に塩田が開墾されるまでは瀬戸内海に突き出した半島でした☆所謂、四国の玄関口です☆
北側の峰には古墳が在るのですが、この古墳の上に礫石が沢山♪仙石秀久の投石によってできたという民間伝承も残ります☆
遺構は結構様変わりしていて分かり辛いです…が、南峰の山中に突入すると残ってます☆

2021年04月21日 水野山城守祐利【7】
聖通寺城



坂出と宇多津にまたがる聖通寺山の南半分が城域であったと思われます。
坂出側の常盤公園への標識から山に向いて上がり、高速高架下くぐって少し行くと道が二股になってますから、そこを左。
前方に空き地ありますのでそこに車を停められます。
空き地脇の細い道を進むと、道両脇が切岸風になっているのがわかります。
そこを抜けると、未舗装道路が右に見えます。曲輪状の平らな場所につながるので、本来の道はこちらだったかもしれません。
舗装道路を先に進むと広場に出ます。東端にややみえにくくなってますが展望台があります。その下側にも狭い曲輪状の平坦地ありますので、櫓等あった可能性も否めません。
この広場の西側に聖通寺山城を示す碑があり、そこにやや強引につけられた坂道があります。
この上が本丸跡と見られるのですが、この坂道は西側に建つ鉄塔工事の際につけられた模様です。
本来の登城路は、未舗装路から曲輪を通るようになっていたのではないかと想像しました。
県の調査では遺構などないとされています。
竪堀などは見られないので、仙石氏による改変はされなかったのではないかと推測しました。

2021年04月17日 【配貫指令】プレレ
聖通寺城



結婚式場を目指し一方通行の分かれ目の空き地に駐車できました。ゆるぎ岩に行く途中の草むらに城跡碑が埋もれかかっています。

2021年02月18日 讃岐守貞子丸
聖通寺城

聖通寺のよこを通り 城跡目指して行くと 最初に見つけたのは、平山城跡の石碑 えっ(;゜O゜)違う。改めて聖通寺城跡を探して一方通行を進み ゆるぎ岩の看板を見つけて行くと、埋もれている と、思っていた石碑が 誰かが掘っていてくれていました!うれしかったです!

2021年02月11日 生駒讃岐守江現蔵✿
聖通寺城



「南海通記」によれば、管領細川氏の馬廻りをしていた奈良氏が貞治元年(1362)高屋合戦における武功により鵜足・那珂の二郡を賜り、奈良太郎左衛門元安が応仁の頃(1467~68)に聖通寺山に城を築きました。
天正十年(1582)、讃岐攻略を目指す長宗我部元親は、1万2千の軍勢で聖通寺城を攻めました。当時勢力の衰えていた奈良氏は、城を捨て勝瑞城の十河存保を頼り敗走しました。
天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国征伐後、讃岐は仙石秀久に与えられました。しかし、秀久は九州戸次川の戦いで島津軍に大敗を喫したため所領を没収され、代わって生駒親正が讃岐領主となりました。親正は初め引田城を拠点としていましたが、讃岐の東に偏っていたため聖通寺城に本拠を移しました。天正十六年(1588)、親正が新たな拠点として高松城を築くと、聖通寺城は廃城となりました。
現在、城跡は「常盤公園」になっており遺構はありませんが、南側の山頂には「聖通寺山城」の石碑があります。説明板も何もないので、石碑を建てた宇多津教育委員会さんにもう少し頑張ってもらい、訪れた人に歴史を知ってもらいたいです。

聖通寺城の周辺スポット情報

 史跡 讃岐守護所跡(碑・説明板)

 平山城(周辺城郭)

 ゆるぎ岩(寺社・史跡)

 積石塚古墳(寺社・史跡)

 常盤公園公衆トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 聖通寺山公園南展望台(関連施設)

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