塩飽勤番所(しわくきんばんしょ)
塩飽勤番所の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 香川県丸亀市本島町泊81
旧国名
- 讃岐国
分類・構造
- 代官所
天守構造
- なし
築城主
- 江戸幕府
築城年
- 寛政10年(1798)
主な改修者
- -
主な城主
- 年寄(650名の人名から選出)
廃城年
- -
遺構
- 堀、主屋、朱印庫、長屋門、土塀
指定文化財
- 国史跡(塩飽勤番所跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
笠島城(香川県丸亀市)[0.8km]
下津井城(岡山県倉敷市)[6.0km]
聖通寺城(香川県綾歌郡)[9.2km]
丸亀城(香川県丸亀市)[11.4km]
高屋城(香川県坂出市)[12.3km]
多度津城(香川県仲多度郡)[13.7km]
城山(香川県坂出市)[14.6km]
黄峰城(香川県高松市)[15.9km]
甲山城(香川県善通寺市)[17.4km]
天霧城(香川県仲多度郡)[17.5km]
塩飽勤番所の解説文
[引用元:Wikipedia「塩飽勤番所」の項目]
塩飽勤番所(しわくきんばんしょ)は、香川県丸亀市本島にある塩飽諸島の旧政庁。現在では塩飽水軍の歴史を展示した資料館になっている。
概要
塩飽諸島は江戸時代に人名(にんみょう)と呼ばれる幕府の御用船方の集まりによって自治が許されており、その中から選ばれた年寄がこの勤番所において政務(島務)を行った。島務は、はじめごろ年寄りの自宅で行われたが、寛政9年(1797)に宮の浜に設置された勤番所で行うようになった。
建物は寛政10年(1798年)に建築された歴史あるもので、万延元年(1860年)に改築された後、旧本島村役場等に利用された。跡地は「塩飽勤番所跡」として昭和45年(1970年)に国の史跡として指定された。建物は史跡指定の後に全面改修を行い改築前の姿に復元され、現在は資料館として公開されている。
敷地は約42メートル四方で、周りは土塀で囲まれている。南面する長屋門には番人部屋が付設し、主屋は入母屋造りで、詰め所は裏にあり、北西部の中庭には朱印庫が建てられている。
展示物としては、織田信長や徳川家康等の朱印状、また咸臨丸の乗組員には多く塩飽諸島出身者がおり、その乗組員の遺品や咸臨丸の模型なども展示されている。
沿革
- 1684年(貞享元年)勘定奉行の通達により、以後朱印状がなくても島中支配が認められた。
- 1798年(寛政10年)勤番所を築造。
- 1860年(万延元年)勤番所を改築。
- 1890年(明治23年)町村制により本島村が成立。
- 1954年(昭和29年)本島村が丸亀市に編入。
- 1970年(昭和45年)7月22日 「塩飽勤番所跡」として国の史跡に指定。
- 1972年(昭和47年)3月 丸亀市役所支所としての利用を終了。
- 1977年(昭和52年)復元改修。
施設
- 本館 - 政務の間、表座敷、控えの間など
- 咸臨丸模型 - 日本初の太平洋横断を達成した時の咸臨丸の水夫50人のうち35人(70%)が塩飽出身である
- 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の朱印状
- 長屋門 - 入母屋造り、本瓦葺き
交通アクセス
- JR丸亀駅から徒歩5分の丸亀港からフェリー(本島汽船)に乗り35分で本島(泊港)着、徒歩8分
- JR児島駅から徒歩3分の児島港から旅客船(便数少ない)に乗り30分で本島(泊港)着、徒歩8分
周辺情報
- 笠島 - 重要伝統的建造物群保存地区
- 専称寺 - 年寄吉田彦右衛門の墓は国の史跡(史跡「塩飽勤番所跡」の附指定)
- 笠島城跡 - 香川県指定史跡
- 長徳寺 - 木造阿弥陀如来坐像、木造釈迦如来坐像、楊柳観音画像、モッコク、天文在銘文字瓦及び絵瓦は丸亀市指定文化財
- 尾上神社
- 木烏神社、千歳座
- 来迎寺
- 正覚院 - 木造観音菩薩三尊像と線刻十一面観音鏡像は国の重要文化財
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塩飽勤番所の口コミ情報
2023年01月15日 庄内尾張守矢田
塩飽勤番所
本島港から(レンタサイクル有り)途中宗教法人のデカい建物を山上に見ながら徒歩で15分🚶島の見どころ図を見ながら巡るといっぱい史跡があるよ。
2020年10月16日 小太郎左衛門督南畿道19國守
塩飽勤番所
本島港から約0,8キロメートルでレンタサイクルで5分ほどで、塩飽勤番所跡に到着。更にその北側には1,4キロメートルで笠島町並保存地区に至る。勤番所跡には、いわゆる天下人3人、信長、秀吉、家康な加えて秀次、秀忠の朱印状が保管、展示されている。瀬戸内海の軍事、経済、流通を左右すら大きな力を有する塩飽水軍は権力者の垂涎の的であり、数々の特権を与え、その中でも、塩飽諸島1250石を人名(にんみょう)と呼ばれる舟方の共有領地としている程で、その代表である年寄が政務をとったのが同所である。
2019年08月07日 石工集団穴太衆【兒】
塩飽勤番所
塩飽水軍の仕事は幕府の求めに応じて無償で船や労役を提供する、というもので 船荷は主に幕府の御用米でした、塩飽船は東北から大阪までの西回り航路を開拓したり、最盛期には400隻以上の千石船を運航していたといいます
塩飽水軍の中の約650人の船方が「人名」という人たちでした、当時の船乗りとしては最高の身分であり、「大名・小名・人名・士・農・工・商」と言われていました、名目上は大坂町奉行の支配とされていましたが、統治は自治であり周辺諸島を治め、また幕府に対しては免税とされていました
人名は「人名株」という形で代々受け継がれ、株を持たない漁師は「間人(もうと)」と呼ばれて激しく差別されました。その為、人名株をめぐって争いごとも起きたといいます
江戸時代、幕府直属の水軍として威勢を奮った塩飽水軍ですが、明治維新となり水軍の任務を終え、陸へ上がり神社仏閣などの建築を手がけてもゆきます。現存している岡山県の吉備津神社や備中国分寺の五重塔や香川県の善通寺の有名な建物は、そうした塩飽の船大工が建てたものが多いそうです。