戸沢氏城館(とざわしじょうかん)
戸沢氏城館の基本情報
通称・別名
- 戸沢氏城館[門屋城・古堀田城]
所在地
- 秋田県仙北市西木町小山田他(地図は門屋城を示す)
旧国名
- 羽後国
分類・構造
- 城館遺跡群
天守構造
- -
築城主
- 戸沢兼盛[門屋城]、戸沢行盛[古堀田城]
築城年
- 承久2年(1220)?[門屋城]、不明[古堀田城]
主な改修者
- -
主な城主
- 戸沢氏[すべて]、門屋氏[門屋城]、小保田氏[古堀田城]
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)[すべて]、土塁、井戸[門屋城]、竪堀[古堀田城]
指定文化財
- 県史跡(戸沢氏城館跡)
再建造物
- 石碑[すべて]、説明板[すべて]
周辺の城
-
角館城(秋田県仙北市)[6.7km]
白岩城(秋田県仙北市)[10.1km]
本堂城(秋田県仙北郡)[20.8km]
唐松城(秋田県大仙市)[21.1km]
戸沢城(秋田県仙北市)[21.3km]
払田柵(秋田県大仙市)[21.9km]
楢岡城(秋田県大仙市)[24.7km]
六郷城(秋田県仙北郡)[26.9km]
四十二館(秋田県大仙市)[28.0km]
豊島城(秋田県秋田市)[31.1km]
戸沢氏城館の解説文
戸沢氏城館の口コミ情報
2024年08月29日 順☆散歩征夷大将軍497+23
古堀田城[戸沢氏城館 周辺城郭]
門屋城跡と古堀田城跡、あわせて「戸沢氏城館跡」なのに自分は今まで門屋城しかリアしておらず…城友様の「古堀田に行ってないのは人としていかがなものか」という勧め(嘘)もあり、今回ようやくリアしてまいりました。
門屋のほうはいかにも居館・本拠地という作りで、その広大さ・堀の巨大さには楳図かずおのキャラのごとく驚愕してしまうようなお城であるのに対し、古堀田は完全に山城テイスト。巨大城郭ではないものの、堀や畝状竪堀の数々にはマスオさんのように「えぇ~!?」となること請け合い。当時の緊張感が伝わってくるようです。鉄塔のための作業道によってごく一部改変・破壊されているように見受けられますが、それでも素晴らしい遺構がたくさん残っていて超オススメ。10分で登れるのもいいですね。完全に性格の異なる2つの城を比較しながら攻城すると面白いかと思います。
さて、自分は西明寺中学校の東の案内板からまっすぐ行ったところ、つまりはメインの登城口からスタート。やや荒れてはいますが道はわかりやすいので問題なしです。7~8分歩くと北郭のちょい手前で道が2手に分かれますので、まずはぐっと曲がって左へ。さらに1つめのヘアピンカーブのあたりで…「ん?なんか左前方の薮に誰か突撃したっぽくない?」という場所があった(たくさんリアしてると誰でもこういうところに鼻が利くようになります)ので自分も突撃。すると予想通り、いきなり畝状竪堀~!そしてそのまま畝状竪堀を横切って進めば北郭の北西の堀切を見ることができます。薮ってますけど真夏でも余裕で確認できますよ。
堀切を確認したら道まで戻ります。そこから1~2分登れば北郭、かなり広いですね。先人様の写真の頃と比べると足元の草が大幅に増量されてますが無問題。東屋の横には土塁も確認できます。南には虎口のような不思議な構造、さらにその先に腰郭?があります。最初の分かれ道を左に曲がらず真っ直ぐ進むとこのあたりに出ます。
腰郭の東側には作業道がありまして、ここも最初は少しだけ草が茂っていますが気にせず降りていきましょう。堀切があります。確かにここは作業道を通すために多少改変されているように思われます。なお、さらに進むと鉄塔があるんですけど、ここも郭跡だそうです。
先ほどの腰郭に戻り、南側を見ると二重堀切です。すごく…大きいです…。二重といっても2つの堀切が連続しているんじゃなくて、巨大堀切の真ん中に畝を設けているタイプですね。なお、道はないですけど、山城リア系メグらーさんであれば普通に切岸を降りていけますからご安心を。(でも降りる場合は自己責任で怪我しないように…)
堀切を超えると南郭です。堀切側には土塁があります。全体的に薮ってますが、郭の西側なら比較的普通に進めます。南郭は大きく3つの区画に分かれてまして(帯郭や小さな腰郭を含めるともっと分かれてますが)、少し進むと1段高くなり、南の先まで進むと今度は1段低くなります。真ん中の1番高い区画はかなり広いです。
そして、ここからが古堀田城のメイン!
南郭の西側の下方(正確には郭の南西)を見ると…激萌えの横堀があるじゃないですか。これは切岸を降りざるをえませんね(もちろん自己責任で)。そして横堀を南に進むと畝状竪堀!素晴らしいです。ここにカフェがあったら通うレベルです。真夏でも全く薮に埋もれず超見やすいです。ここに来るちゃんとした道がないのが大変勿体ないです。
さらに横堀&畝状竪堀は南郭の南端で折れて郭の東側に続いていて、ここからは少し薮になるもののその中を進めば竪堀が20本近くは確認できます。これはもう薮が苦手な人でも突撃したくなるしたくなるレベル(個人の感想です)。なお、横堀は最終的に堀切みたいになります。行けばわかります笑
先ほどの薮を突破すると作業道に出るんですけど、この作業道によって南郭の遺構は少し破壊されているかもしれませんね。この作業道は南方向に進むと城外のようなので北上してください。二重堀切のところに戻ってくることができます。
そんな感じで自分はほぼ全域を散策して堪能しました。途中迷ったりしつつ、それでも登城口から往復75分ほどでサクッとリアできました。ただ、自分は、当時の登城道はどこなのか、北と南を行き来する場合の動線はどうなっていたのかが今ひとつわからなかったので、詳しい方がいらっしゃいましたらその辺りご教授いただけると嬉しいです。
写真①北郭北西の畝状竪堀
写真②北郭北西の堀切
写真③二重堀切
写真④南郭の段差
写真⑤南郭南西の横堀
写真⑥南郭南西の畝状竪堀
写真⑦南郭南東の畝状竪堀
写真⑧南郭東の堀切
2021年07月25日 RED副将軍
古堀田城[戸沢氏城館 周辺城郭]
出羽角館大名で夜叉九郎・鬼九郎の異名の持ち主、戸沢盛安で有名な戸沢氏の重要な支城です。「こぼたじょう」と読みます。
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。
石器が出土していることから先住民族によるチャシがあったと推測されています。
口碑によると、1361年頃に戸沢行盛が住んでいたが早逝し、弟の小保田豊盛が城主となり、小保田城と呼ばれる様になるも、なぜ古堀田城となったかはナゾのまま。
戸沢領北部を守備する拠点として機能し、戸沢一族または重臣の居城であったと見られています。
1590年、豊臣秀吉による奥州仕置において、戸沢盛安は小田原征伐に参陣したため、所領安堵。しかし「戸沢三十五ヶ城破却令」により廃城。
戸沢盛安も小田原参陣中に急逝。暗殺説もあります。
この辺りは良い山城が多いのですが、特に素晴らしいと地元秋田の城友さんの情報から訪城してきました。
縄張りは北郭と南郭に分かれ、北郭は公園として整備されています。あまりメンテはされておりませんが… 近くの畦道の脇に駐車しヤブ化しつつある林道を登っていきます。
登った先に北郭がありますが荒廃した感じ。北郭を巡る空堀は見事なはずでしたが、林道による改変にしか思えず残念でした。
北郭の北側に堀切があるはずですが余りの藪で確認できず。
続いて目玉の北郭と南郭を隔てる二重堀切に向かいます。北郭南端から確認できますがヤブと鋭く深い堀切で降りようがありません。そこで南東の林道脇からヤブを掻き分け何とか到達。二重堀切は深さ6m、幅10mはあり、中央に畝を確認。やはり素晴らしいです。
続いて南郭に登りますが完全にヤブの世界。南東部に深い畝状竪堀群、南端に堀切等があるみたいですがヤブで確認できず。
冬に再訪したい城跡ですが、遠方で出来るかどうか…
写真
①北郭と南郭を隔てる二重堀切。真ん中に畝があります。
②二重堀切を上から。ヤブと深さで降りられません。
③二重堀切を別角度。
④北郭南端の帯郭。この先のヤブに二重堀切があります。
⑤北郭の土塁。
⑥南郭はこんな感じの激ヤブ。
⑦北郭東側の堀切。たぶん、この先の送電線を建てた際に改変している。
⑧北郭は公園。
2014年11月13日 中務少輔きたろう三世
戸沢氏城館
古堀田城は、西明寺中学校から東に延びる道の先にあり、登城口に案内板がある。
100m程度登ると東屋のある郭があり、南に延びる道の先に大堀切や 畝状阻塁がある。
東屋からはそれなりに藪をかき分ける必要があるが、少し進むと藪は楽になる。
2012年11月13日 奥州王征夷大将軍毘沙門天乱丸
戸沢氏城館
角館よりR105北上
秋田内陸線西明寺駅付近に入口の案内板有り、城跡までスムーズに行けます。
残念ながら時間の都合上場所確認で終わる(^^;)
2011年10月25日 足軽越中守一歩
戸沢氏城館
鳥居をくぐり、幅が2mもない急な階段と道を、ちょいと歩くと、だだっ広い雑木林に出て神社だけがポツンとある。狭い入り口からは想像出来ないが、5ヘクタールの広さだそうだ。甲子園球場のグランドが、1.3ヘクタールだから約4倍である!角館城が出来るまで200年間居城であった。秀吉が領内35城を破却するまでの360年間使用されてたとは凄い!
門屋城跡、古堀田城跡が、「戸沢氏城館跡」として秋田県の史跡に指定されている。
門屋城
門屋城は、安貞2年(1228)に戸沢兼盛によって築かれたとされる。その後、200年ほどの間、戸沢氏の本城として機能していた。戸沢氏が角館城に拠点を移した後は、戸沢氏の家臣が入った。その後戦国時代後期に破却された。古堀田城
古堀田城は、戸沢氏の北方防備における重要拠点とされていた城郭である。そのため、代々、戸沢氏一門が入ることが多かった。その後、門屋城と共に戦国時代に破却された。