益田氏城館(ますだしじょうかん)
益田氏城館の基本情報
通称・別名
- 益田氏城館[三宅御土居・七尾城]
所在地
- 島根県益田市三宅町他(地図は三宅御土居を示す)
旧国名
- 石見国
分類・構造
- 城館遺跡群
天守構造
- -
築城主
- 益田兼見[三宅御土居]、益田兼高[七尾城]
築城年
- 南北朝時代[三宅御土居]、鎌倉時代[七尾城]
主な改修者
- 益田藤兼[七尾城]
主な城主
- 益田氏[すべて]
廃城年
- 慶長5年(1600)[すべて]
遺構
- 土塁、横堀(空堀)[三宅御土居]、曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀群[七尾城]
指定文化財
- 国史跡(益田氏城館跡)
再建造物
- 説明板[すべて]
周辺の城
-
上久々茂土居(島根県益田市)[4.3km]
向横田城(島根県益田市)[8.8km]
針藻城(島根県浜田市)[14.4km]
下瀬山城(島根県鹿足郡)[15.2km]
三隅城(島根県浜田市)[15.9km]
鰐坊山城(山口県萩市)[17.3km]
上ノ山城(島根県益田市)[19.1km]
周布城(島根県浜田市)[25.3km]
津和野城(島根県鹿足郡)[25.6km]
賀年城(山口県山口市)[29.2km]
益田氏城館の解説文
益田氏城館の口コミ情報
2021年01月10日 iCastle周防守 6s
三宅御土居跡[益田氏城館 遺構・復元物]
「おどい広場」と名付けられた史跡エリアがあり、土塁、堀跡、館跡などが示されてます。一応、車が止められる広さはありますが駐車場ではないので近所迷惑にならないようご注意ください。
2020年08月17日 ビーンズマン玄蕃頭
益田氏城館
三宅御土居跡は、何年先かわからないけど今後整備される予定です。
2020年08月02日 ビーンズマン玄蕃頭
医光寺総門[益田氏城館 遺構・復元物]
七尾城の門を移築したものです。
2016年01月03日 カーネル
益田氏城館
山陰本線益田駅からアプローチ。バスは本数が少ないので歩きで
駅前から南に歩き、すぐの県道54号にでて、その後はひたすら東へ。道はキレイで歩道も広いです
バスであれば、水源地前というバス停があります。バス通りから住吉神社の鳥居をくぐり、境内奥の階段を上ります
住吉神社の階段を登り真っ赤な山門をくぐってすぐ左に登山口と城の地勢図があり、その脇をすすみ、ここから未舗装になります。最初の登りはキツいですが距離も短く、すぐに整備された城域内に入って歩きやすくなります
本丸、二の丸、良の出丸、尾崎丸、千畳敷と広いので時間に余裕を。下山後は三宅御土居に寄って益田駅へ。2時間ちょい
初めてきたときは、日が暮れて本丸に着いたときは真っ暗だったのでリベンジしに来ました(本丸から見る夜景はきれいでした)
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
【三宅御土居】
三宅御土居(みやけおどい)は、島根県益田市三宅町にあった城館。益田兼見により、室町時代の応永年間(1368-75)年に築かれたといわれている。発掘調査が進められており、現在井戸などが復元されている。
【七尾城】
七尾城(ななおじょう)は島根県益田市七尾町にあった城。
七尾城は、中世の益田氏の居城で、益田兼高が築城した。陶晴賢と毛利元就との戦いの中で、当時の領主益田藤兼は陶側につき、毛利勢の攻撃に備えて城を大改修した。その後藤兼は元就の軍門に降り、毛利氏の家臣となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦後、毛利氏は防長2国へと減封となった時、七尾城主だった益田氏の当主益田元祥は毛利氏に従って長門須佐へと移り、七尾城は廃城となった。現在、大手門が益田市の医光寺総門として現存する。平成16年(2004年)、平時の居館である三宅御土居とともに「益田氏城館跡」として国の史跡となった。