益田氏城館(ますだしじょうかん)

益田氏城館の基本情報

通称・別名

益田氏城館[三宅御土居・七尾城]

所在地

島根県益田市三宅町他(地図は三宅御土居を示す)

旧国名

石見国

分類・構造

城館遺跡群

天守構造

築城主

益田兼見[三宅御土居]、益田兼高[七尾城]

築城年

南北朝時代[三宅御土居]、鎌倉時代[七尾城]

主な改修者

益田藤兼[七尾城]

主な城主

益田氏[すべて]

廃城年

慶長5年(1600)[すべて]

遺構

土塁、横堀(空堀)[三宅御土居]、曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀群[七尾城]

指定文化財

国史跡(益田氏城館跡)

再建造物

説明板[すべて]

周辺の城

向横田城(島根県益田市)[8.8km]
針藻城(島根県浜田市)[14.4km]
下瀬山城(島根県鹿足郡)[15.2km]
三隅城(島根県浜田市)[15.9km]
鰐坊山城(山口県萩市)[17.6km]
上ノ山城(島根県益田市)[19.1km]
周布城(島根県浜田市)[25.3km]
津和野城(島根県鹿足郡)[25.6km]
賀年城(山口県山口市)[29.2km]
政国城(島根県鹿足郡)[31.8km]

益田氏城館の解説文

益田氏城館は、中世の石見で最大の勢力を誇った益田氏に関する城館群である。

三宅御土居跡、七尾城跡が、「益田氏城館跡」として、それぞれ国の史跡に指定されている。

三 宅 御 土 居 

三宅御土居跡(みやけおどいあと)は、島根県益田市三宅町にある城館跡。

概要

三宅御土居は、平安時代末期に石見国の国司として下向して建久年間に益田荘に本拠を移した益田氏の居館。また、その詰め城として七尾城が築かれた。築造者や築造時期などははっきり記録されていないが、通説では益田兼見によって室町時代の応安年間(1368年-1375年)に築かれたとされる。益田川の水運(益田本郷地域への流通)や農業用水を管理するために、益田川下流の川沿いに築かれたと考えられている。

戦国時代後期、毛利元就と対立することとなった益田藤兼は七尾城に本拠を移したが、毛利氏と和睦してその傘下に組み込まれると、藤兼の子・益田元祥は三宅御土居に戻っている。元祥は三宅御土居を大改修したとされるが、関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏の周防・長門への移封に伴って元祥も長門国須佐に移り、三宅御土居は廃城となった。

江戸時代初期に、益田氏旧臣の木村平左衛門尉祐光が同所に泉光寺を創建したため、近現代の都市開発などによる遺構の破壊を免れた。

その後、三宅御土居跡と七尾城跡は、昭和40年代に県の史跡となる。昭和58年7月豪雨で益田川の氾濫による被害を受けた益田市は、新たな都市計画を進める中で史跡の重要性も考慮し、三宅御土居跡の発掘調査結果を復元した「おどい広場」などが整備されることとなった。平成16年(2004年)、七尾城とともに国の史跡の指定を受ける。なお、前述の泉光寺は、三宅御土居跡の発掘調査・史跡整備に伴って平成20年(2008年)に移転している。

遺構

堀と土塁

居館跡の敷地(堀内)は、東西約190メートル・南北約110メートルで、およそ二町分の規模を持つ大規模なものであった。ただし、全体的な形は正方形や長方形ではなく、東辺が北側に長く延びているブーツ形をしているため、珍しい形状である。敷地の両辺(東西)は土塁が残っており、東土塁が長さ87メートル・高さ5m、西土塁が長さ53メートル・高さ4.5メートルである。また、現存する東西土塁の他に、南側にも高さ1.5メートルの土塁跡が見つかっているが、一部が途切れており、周囲よりもせり出た地形が正面出入口(虎口)の可能性が指摘されている。

居館跡の周囲は、全周に渡って堀が設けられており、益田川から引き込まれた水で満たされていた水堀とされる。東西土塁の外側の堀は幅10メートル・深さ2.5〜3メートルの箱堀、北側の堀は幅10〜16メートル・深さ1.5メートルであり、南側は幅20〜25メートルの川をそのまま堀としていた(当初は、幅4.2メートル・深さ1.5メートル程度の浅い堀が存在していたが、後代に埋め立てて帯曲輪にされている)。

建物

堀内からは各時代の多くの建物跡や出土品が見つかっており、13世紀の木組み井戸跡、16世紀の礎石建物跡・石積み井戸跡・鍛冶場跡、12世紀~16世紀の掘立柱建物や陶磁器などを発掘・出土している。

堀内の西側に御殿や庭園などの私邸部、東側に政治を執り行なう邑政堂や鍛冶場・米蔵などの公的施設部があったと考えられる。特に多数の柱穴が見つかった西側の掘立柱建物は、12世紀~16世紀にかけて繰り返し何度も建て替えられており、保存整備されたおどい広場では、6棟の掘立柱建物跡を時代ごとに色分け(異なる金属の埋め込み板で建物跡を表示)して展示している。

七 尾 城 

七尾城(ななおじょう)は島根県益田市七尾町にあった日本の城。

概要

七尾城は、石見国の国司として鎌倉時代(建久年間)に益田荘を本拠とした益田氏の城。歴代の益田氏が居館とした三宅御土居などの詰めの城として、標高約120メートルの七尾山に築かれた。山頂の本丸跡(標高約118メートル)からは益田平野から日本海までを一望できる。なお、三宅御土居跡とは、益田川を挟み870メートルの距離がある。

発掘調査により、大小40あまりの曲輪・空堀・土塁・井戸跡などが発掘された。さらに、戦国時代後期のものとされる礎石建物や遺物が多く出土しており、毛利元就と対立した頃には益田藤兼と家臣たちが居城とするなど、戦時のみに使われる城郭という従来の山城のイメージを塗り替えるものである。

歴史

築城時期は諸説あるが、通説では建久4年(1193年)に益田兼高が築城したとされる。史料に登場するのは南北朝時代で、延元元年(1336年)に南朝方の三隅氏が「北尾崎木戸」(当時の大手口)を急襲したことが益田家文書に残る。

戦国時代後期、益田氏は陶氏と縁戚関係にあり、大寧寺の変でも陶隆房(後の陶晴賢)に協力していたが、その陶晴賢が天文24年(1555年)の厳島の戦いで毛利元就に敗れると、当時の益田氏当主・益田藤兼は毛利勢の攻撃に備えて城を大改修した。この時、藤兼とその家臣たちは、三宅御土居を出て七尾城内に移住したとされる。その後、藤兼は元就の軍門に降って毛利氏の家臣となり、藤兼の子・益田元祥は三宅御土居に居館を戻した。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は周防国・長門国の2ヶ国へ減封されると、益田元祥も毛利氏に従って長門須佐へと移り、七尾城は廃城となった。

現在

廃城時に、城の大手門は医光寺に移築されて総門としてなって現存しており、「医光寺総門」として1961年(昭和36年)に島根県の指定文化財とされた。

さらに、昭和40年代には三宅御土居跡と共に島根県の史跡として指定される。そして、2004年(平成16年)9月30日、再び三宅御土居とセットで国の史跡「益田氏城館跡」となった。

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益田氏城館の口コミ情報

2023年11月20日 ファントム弾正少弼
益田氏城館

益田氏の七尾城趾と麓の城館に行ってきました〜。
七尾城は麓の神社⛩の鳥居をくぐった所に車を停めさせてもらい長いコンクリートの階段を登ると赤い門があり中腹に神社があります。そこから10分くらいで本丸に到着。
曲輪もよく残っていて益田の市街と日本海が見渡せ素晴らしい。
曲輪は尾根に挟まれたY字がたの構造で尾根の付け根あたりに石垣造りの井戸跡があり長細い本丸には階段を下ると畝状竪堀群が16本あり樹木があるけど見応えあります。二本の尾根の曲輪の谷間が家臣団の屋敷が構えてあたらしく昔の大手口らしいです。本丸から眺めて城下町を挟んで河を渡った辺りに城館跡がありました。今は道路が貫通して分断されてますが、敷地は190〜100メートルと広く両側に大きな土塁跡が残っていましたが内側はお寺の跡か、お墓があります。地中に発掘調査された遺構が眠っているみたいです。

2022年05月15日 織田上総介晃司
七尾城[益田氏城館  周辺城郭]

最初に断っておきますが能登の七尾城ではなく益田氏城館の石見七尾城の事です。

住吉神社の石鳥居をくぐると駐車場があります。そして住吉神社の長い石段を登ると登城口があります。登城道よりも神社の石段のほうがキツかった…

2筋に分かれる尾根に城を構え、全長600mの大規模な城です。

すべて見ようと思えばかなりの時間が必要です。東側尾根の後、西側尾根の千畳敷で動物の気配を感じ、熊も出没するというのでそこから先は断念しました。

益田市は室町時代の水墨画家・雪舟縁の地で当時の当主・益田兼堯の招きで医光寺の住職となったそうです。現在医光寺に七尾城の大手門が移築され、医光寺総門となってます。その門がガンダムに登場したモビルアーマーのビグザムに見えてしまうのは私だけ?(笑)

2022年05月15日 織田上総介晃司
益田氏城館

三宅御土居
御土居跡に駐車場らしきものがありますがはたしてそれが三宅御土居の駐車場かどうか定かではありません。

東土塁と西土塁が残ってますが墓地として利用されて形が変わった部分もあります。

三宅御土居跡の土地を益田市が買い取り、史跡としての整備を進めるとの事です。

益田市は飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂の出生地と没地といわれており、出生地に戸田柿本神社が、没地に高津柿本神社があります。

2021年06月20日 上田図書頭雪娘
益田氏城館

曲輪が良好な状態で多数見られます。ただし、曲輪名称や案内板が少ないため縄張り図が必要です。斜面もきびしいです。

2021年01月10日 iCastle周防守
三宅御土居跡[益田氏城館  遺構・復元物]

「おどい広場」と名付けられた史跡エリアがあり、土塁、堀跡、館跡などが示されてます。一応、車が止められる広さはありますが駐車場ではないので近所迷惑にならないようご注意ください。

2020年08月17日 ビーンズマン中務大輔
益田氏城館

三宅御土居跡は、何年先かわからないけど今後整備される予定です。

2020年08月02日 ビーンズマン中務大輔
医光寺総門[益田氏城館  遺構・復元物]



七尾城の門を移築したものです。

2016年01月03日 カーネル
益田氏城館

山陰本線益田駅からアプローチ。バスは本数が少ないので歩きで

駅前から南に歩き、すぐの県道54号にでて、その後はひたすら東へ。道はキレイで歩道も広いです
バスであれば、水源地前というバス停があります。バス通りから住吉神社の鳥居をくぐり、境内奥の階段を上ります

住吉神社の階段を登り真っ赤な山門をくぐってすぐ左に登山口と城の地勢図があり、その脇をすすみ、ここから未舗装になります。最初の登りはキツいですが距離も短く、すぐに整備された城域内に入って歩きやすくなります

本丸、二の丸、良の出丸、尾崎丸、千畳敷と広いので時間に余裕を。下山後は三宅御土居に寄って益田駅へ。2時間ちょい

初めてきたときは、日が暮れて本丸に着いたときは真っ暗だったのでリベンジしに来ました(本丸から見る夜景はきれいでした)

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです


益田氏城館の周辺スポット情報

 医光寺総門(遺構・復元物)

 三宅御土居跡(遺構・復元物)

 16代益田宗兼の墓碑(碑・説明板)

 益田氏10代兼方・11代兼見の墓(碑・説明板)

 益田氏15代兼堯の墓(碑・説明板)

 益田氏19代藤兼の墓(碑・説明板)

 益田氏13代兼家(秀兼)の墓(碑・説明板)

 益田七尾城の説明板(碑・説明板)

 七尾城跡 大手の帯曲輪(碑・説明板)

 七尾城跡 西尾根曲輪群(碑・説明板)

 益田氏七尾城登城口・住吉神社(周辺城郭)

 大谷土居屋敷(周辺城郭)

 稲積城(周辺城郭)

 大谷城(周辺城郭)

 七尾城(周辺城郭)

 上久々茂土居(周辺城郭)

 四ツ山城(周辺城郭)

 住吉神社・登城口の駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 七尾城跡 登城口(その他)

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