三隅城(みすみじょう)
三隅城の基本情報
通称・別名
- 高城
所在地
- 島根県浜田市三隅町三隅
旧国名
- 石見国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 三隅(益田)兼信?
築城年
- 鎌倉時代?
主な改修者
- 毛利氏
主な城主
- 三隅氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、堀切、畝状竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
針藻城(島根県浜田市)[4.2km]
周布城(島根県浜田市)[9.8km]
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三隅城の解説文
三隅城の口コミ情報
2021年09月20日 ビーンズマン修理大夫
井野城[三隅城 周辺城郭]
別名は井村城。三隅城主・三隅兼連の弟・兼冬の子が井村氏を名乗ったと考えられている。
報恩寺の隣の春日神社の左に登山道がある。整備された道。昔からあったとは思えない。結構すぐに登頂できる。主郭に城主井村氏の石碑がある。
2017年05月03日 ピクニック勘解由長官
三隅城
三隅神社の横から龍雲寺を左手に見て、さらに車で5分弱。ツツジ祭りに合わせて行くと草も刈って整備されてます。
三隅城の周辺スポット情報
井野城(周辺城郭)
歴史
築城年代は不明だが、鎌倉時代に三隅氏により築かれたと伝わる。南北朝時代には南朝方や足利直冬勢力の拠点だったと考えられ、北朝方の上野頼兼や高師泰の攻撃を撃退したことが文書に記されている。
三隅氏は、中世に石見西部で勢力を誇った豪族だ。御神本氏という共通の祖先を持つ益田氏の系図によれば、始祖とされる国兼は摂関家だった藤原氏の一族で、永久年間(1113~1118)に石見国司として赴任。その曽孫の兼高が源平合戦での活躍によって鎌倉幕府の成立において厚遇を受け、石見の大部分を拝領した。兼高には3人の男子がおり、長男の兼季が益田地域を、次男の兼信が三隅地域を、三男の兼広が江津市有福温泉町あたりを本拠として、それぞれ益田氏、三隅氏、福屋氏と名乗ったという。
戦国時代には、三隅氏は出雲の尼子氏に属して大内氏に従う益田氏と対立。大永5年(1525)には、三隅城は大内義興に攻められ落城している。その後は安芸の毛利氏に従属して三隅城を取り戻したとされるが、やがて毛利氏と敵対し、元亀元年(1570)に毛利方の吉川氏に攻められて滅亡した。
三隅城は元亀元年の落城時か戦国時代末期に廃城になったと思われる。
遺構
三隅川中流域右岸にある標高約362メートルの高城山に築かれている。いかにも有力豪族の本城という立地で、中世の港町を見下ろし、陸水交通を掌握していた。山頂付近まで車で行くことができ、登山口を2~3分登ると中丸に着く。山頂の曲輪群が確認できる程度で城の全容を知ることはできないが、山全体が要塞化されていたようだ。中丸と、その東西に置かれた東丸と西丸を中心の構成されている。
中丸は本丸(櫓台跡)、ニの平、三の平から構成され、三の平の北西側には帯曲輪がある。西丸は尾根上に5段の曲輪が連なる。中丸の約20m下方にある西丸が城内最大の曲輪で、その規模は長さ約63m。大手は東方の谷部とされている。
高城山南側の中腹には、三隅氏の菩提寺である海蔵山雲龍寺がある。
交通
・浜田自動車道浜田ICから車で約35分参考文献
・『石見の山城 山城50選と明らかにされた城館の実像』、ハーベスト出版、2017年。・『山陰の城 (探訪ブックス-城<6>)』小学館、1981年。
・『中世益田ものがたり』益田市・益田市教育委員会、2019年。