大富山城(おおとみやまじょう)
大富山城の基本情報
通称・別名
- 大富城
所在地
- 広島県庄原市西城町栗他
旧国名
- 備後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 宮高盛
築城年
- 天文2年(1533)
主な改修者
- -
主な城主
- 西城宮氏、天野氏(毛利氏家臣)
廃城年
- 慶長5年(1600)
遺構
- 曲輪、堀切、畝状竪堀群
指定文化財
- 市史跡(大富山城跡と二の丸跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
五品嶽城(広島県庄原市)[14.5km]
甲山城(広島県庄原市)[16.7km]
蔀山城(広島県庄原市)[20.2km]
湯谷城(鳥取県日野郡)[21.9km]
有福城(広島県府中市)[24.0km]
高杉城(広島県三次市)[25.9km]
上下陣屋(広島県府中市)[26.2km]
紫城(岡山県高梁市)[28.5km]
九鬼城(広島県神石郡)[28.9km]
楪城(岡山県新見市)[31.1km]
大富山城の解説文
大富山城の口コミ情報
2023年02月25日 安芸守 あきら
護国神社駐車スペース[大富山城 駐車場]
護国神社前の駐車スペースです。車1~2台程度駐車できます。上がって来るまでの道は急勾配かつ狭いので注意して下さい。
2023年02月25日 安芸守 あきら
大堀切[大富山城 遺構・復元物]
説明板では『大空堀』と記載されています。ご覧のとおり現在は林道となっており、物見が丸側はブロック積擁壁に改変されているのが残念ですが堀の巨大さは圧巻です。
2023年02月25日 安芸守 あきら
登城口[大富山城 その他]
登城口はこちらです。この上の護国神社まで車で行けます。(軽自動車であれば余裕ですが、普通車はちょっとドキドキです。)急坂でコンクリート舗装にコケが生えているので徒歩でも滑ることもあるので注意して下さい。
2021年04月04日 織田上総介晃司
大富山城
国道183号を進むと「浄久寺のカヤの木」の案内板があるのでそちらに進んでください。(案内板が小さいので見落とし注意)
浄久寺の手前を右折して墓所の前を通り過ぎ林道を進み、大堀切に説明板と数台停めれる駐車スペースがあります。
そこから主郭までは約15分で到着します。
藪化している菊の段には虎口と思われる場所に石積があります。
主要部だけだとそんなに時間はかかりませんが、林道からかすかに確認できる畝状竪堀群や南西部をすべて見ようと思えばかなり時間は有するようになります。
大富山城の移築門が福山市の胎蔵寺にあります。
なぜ80kmも離れた福山市にあるのか?
元々胎蔵寺は庄原市西城町にあったそうです。
福島正則の時、福山市神辺町に移転。
水野勝成が福山城の鬼門を守るため福山市北吉津町(現在地)に移転したそうです。
奥備後と呼ばれる庄原市や三次市では昔から「わに」をよく食べます。
日本にワニがいるの!と思われますが、ここで言う「わに」はアリゲーターではなくシャークの事です。
冷凍技術や輸送機関が発達してない頃日保ちのするわにが山陰から届けられ食べだしました。
発達した今でもわにをよく食べます。
2020年09月20日 やるがみ
大富山城
北側(備後西城駅側)にも登り口があります。
この場合は西城川から分かれる支流の入江川を川上に向かって進み、鉄道をくぐると登り口につきます。
この登り口からは大富山城址公園なるものを通過するのですが、もはやただの草むらへと帰りつつあります。
登り道はやや広めで分かりやすく、有難いくらいに整備されています。
なお、備後西城駅前に簡単な案内図がありますが、(恐らく)間違っています。
蓮照寺の横側に登り口があるように見受けられますが、JR芸備線を越えられません。
お気をつけください。
2018年04月07日 梅鉢近江守Silvine
大富山城
国道183号、西城ふれあいセンターを南へ。西城川を渡る手前に「西城浄久寺のカヤ」の案内があるので、それに従って浄久寺へ向かいます。奥へ進むと左が寺ですが、右へと進むと墓地がありその前を通って林道に入ります。水道施設、トンネルを抜けると未舗装になりますが、しっかり固められた道で普通車でも充分上がれると思います。
寺から2kmほどで大堀切にたどり着きます。説明板と駐車スペースあり。そこから主郭までは15分もあれば到達できます。基本的には守りは天然の断崖に任せた、主郭を中心に同心円上に曲輪を配置したシンプルな城です。
大堀切から反対側の尾根筋にも曲輪群があったようで、こちらには堀切や土塁を確認できます。
2014年06月26日 青き巨星弾正少弼かみ
大富山城
大富山城は本城と搦城の物見が丸で構成され、本城、大堀切、連結郭、物見が丸、二重の空堀で並んでいます。
全部写真を撮りましたが全部お見せ出来なくて残念です。
その後、久代宮氏は毛利氏支配下に入り、転封などを経て何度か城主が変わった。
関ヶ原の戦い後、安芸・備後に福島正則が入ったころに廃城となった。