岩尾城(いわおじょう)
岩尾城の基本情報
通称・別名
- 和田城
所在地
- 兵庫県丹波市山南町和田
旧国名
- 丹波国
分類・構造
- 梯郭式山城
天守構造
- 不明(天守台あり)
築城主
- 和田斉頼
築城年
- 永正13年(1516)
主な改修者
- -
主な城主
- 和田氏、佐野栄有
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、出丸、石垣、天守台、堀切、土塁、井戸、虎口
指定文化財
- 県史跡(岩尾城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
柏原陣屋(兵庫県丹波市)[10.3km]
黒井城(兵庫県丹波市)[14.7km]
光明寺城(兵庫県加東市)[17.0km]
生野城(兵庫県朝来市)[17.8km]
福本陣屋(兵庫県神崎郡)[18.8km]
小谷城(兵庫県加西市)[21.5km]
藍岡山城(兵庫県三田市)[21.6km]
篠山城(兵庫県丹波篠山市)[22.4km]
沢田城(兵庫県丹波篠山市)[23.1km]
豊地城(兵庫県小野市)[24.5km]
岩尾城の解説文
岩尾城の口コミ情報
2022年02月07日 ひろ玄蕃頭
岩尾城
和田小学校の裏から登城。獣柵入ってどこ進むかわからずピンクテープのほうへ向かうとシダヤブ急登コースでした。大手曲輪に到着し そこからは順調に。思っていた以上の石垣で興奮しました。
2021年08月10日 うっきー
岩尾城
谷川駅から和田小学校まではバス。和田小学校裏の登城口から登りました。30分〜40分ぐらいかかります。堀切を過ぎると、何箇所かに石垣が見られ、最後は西の丸、天守台が迎えてくれます。登城した日は、雨と風で大変でしたが、なんとか到着しました。石垣には感動します。
2020年03月09日 RED副将軍
岩尾城
和田小学校裏手から登り、帰りは達磨岩が見たいので新緑寺の裏手に出るルートで下山しました。
40分くらいで山頂に着きますが、素晴らしい石垣がありますので山頂での時間は余裕を持った方が良いと思います。
登山道はそんなに勾配は険しく無いですが、写真の通り、3月でもシダが生い茂ってます。肌の露出は無い方が良いです。
新緑寺ルートは勾配険しく、滑りやすいのでしっかりとしたトレッキングシューズは必要です。
2019年08月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
岩尾城
岩尾城の登城路の一つ、南麓の丹波市立和田小学校側登城路入口は写真のとおりです。
丹波の山々を道路から覗くとみんな山城に見えてしまうのは自分がどうかしちゃったのかしらんなのかもしれませんが、岩尾城は丹波のお城レベルの高さを見せつけてくれるとてもよいお城でした。ただ黒井城が続100名城に指定されて脚光を浴び写真投稿数も多いのに、こちらは陰になっている感がするのは自分だけでしょか。お城は黒井城に勝るとも劣らない素晴らしさ、是非沢山の方に訪ねて頂きたいです。
黒井城で満足する方が多いのかもしれませんし、同レベルのお城を続けて見るのが厳しいのかもしれませんが、登城口が解り難いので敬遠される方もいらっしゃるかと思います。
登城路は縦走コースを含めれば幾つかあるらしいのですが、登山になるかもしれないのでとりま縦走コースはパス。となると二つに絞られます。一つは親縁寺の裏手から登るルートで自分はこのルートを使って帰りましたが、登城するには不安しか感じない道なのでやめときましょう。もう一つは丹波市立和田小学校の裏手から登るルートで写真の場所になります。此処は本当に小学校の真裏にあって、自分は左手が職員室、右手が保健室の玄関からお邪魔して職員室に声を掛けて行きました。大学までは柔道をやってたよて感じの先生が快く説明してくれたのでもう安心、校舎を突っ切って登城路入口に直ぐ辿り着きました。リア攻めして靴を脱いだのは初めてですw
登城路は結構粘土質で岩盤も所々露出してますがVANSでも頑張れば行けます。途中からシダシダし始めてシダックスですが、この時期でも道が消えてはいないので30分ぐらいは我慢しましょう。登って最初の郭、南曲輪に到達する前に何条か竪堀らしきものに遭遇しますが、シダシダしてて心眼と想像力を使い切らないと見落とすかもしれません。が、無視も出来ます。竪堀のアンビエントミュージック、BRIAN ENOです。
見事な堀切を越えると井戸にぶつかり、井戸に直結するような竪堀が現れて困惑したりしますが、最初に現れる石垣の少し先に本来の大手道と思われる土留めの石積を持った道が登っていますので見落とさないようにしましょう。ただし今は藪でとても行けません。
あとはお宝のオンパレード、でも主郭部の石垣で満足しないで!面倒がらずに搦手?側も探索しましょう。
2019年07月09日 薩摩守たろす
岩尾城
先人の情報の通り、学校前の「和田地域づくりセンター」さんに駐車場お願いしたところ、快く止めさせてもらえました。かなりの台数が停められます。
こちらも情報通りですが、登城口までは小学校の敷地内を通るため、事前に(下山後も)学校に連絡するよう、校門に注意書きがありました。
私はセンターの職員さんが連絡してくれました。
下山後、センターさんにお礼の挨拶に伺ったら中に通され、少しお喋りさせていただきました。
遺構や城跡にはあまり手を加えていないとのこと、職員さんもどこまで手をかけるべきか思案中のようですが、途中シダ類は多いが道が見えないわけでもなく、説明札等もあり、今のままで十分な気はします。
もう少し中腹の石垣が見られると良いかも…
また、現在パンフレット類はありませんが、来年の大河「麒麟がくる」の影響を見越して、ガイドブックを作成中とのことです。
完成が楽しみですね!
2018年12月09日 ぽこりくん®︎権六
岩尾城
本丸周辺の樹木を伐採、下草を刈り取り中でした。
作業員の話では、向かいの山から石垣が見えるように整備しているとのこと。
石垣など素晴らしい遺構が残存していますが、整備が進めばより一層引き立つと思います。
再訪したい魅力的な山城です。
2018.12.08登城
2017年11月02日 iggy摂政
岩尾城
市役所(山南支所)で縄張図を問い合わせましたが縄張図を記した資料はなく市が押す文化財にも入っていません(悲)
登城口は和田小学校の校庭を入り込みます(一声かけましょう)。
専用駐車場はなく学校前の「和田地域づくりセンター」さんにお願いしたところ、快く止めさせてもらえました。
校庭を抜けコンクリロードを進むと「登城口」の表示、害獣避けのフェンスからいざ登城。
中腹まではシダ系植物が道を覆うように繁ってますので、夏場は足元注意。
中腹までに古い石垣群、堀切、井戸と続きます。
そして南曲輪、下知殿丸曲輪と進み西の丸の石垣が姿を現します。
この石垣は丹波国の山城の中で最も優れていると言われいるそうです。
二の丸、天守台、土塁等々があり石垣は雄壮です。
木々があり、パノラマというわけではありませんが、空に近く気分は最高。
登りは健脚なら30分ですが、遺構探索となれば+α。
シダ系植物が多いので、中腹までの遺構はよくわかりませんが、所々に竪堀?などと思われる所がありますので、遺構に詳しい方は倍楽しいと思います。
周辺にコンビニ等はないので飲料水、トイレは事前に。
2017年04月03日 左近衛大将みきを
岩尾城
麓から城跡までの道のりは急な上り坂が続きますので、トレッキングシューズ等を装備して行くのが無難です。
城跡には迫力満点の石垣が待っているので、頑張って登る価値があるお城だと思います。
また、先人の方の口コミがとてもわかりやすく正確な情報だったので、迷わず城跡までたどり着けました。
この場を借りてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
2015年10月03日 尾張守だもんで
岩尾城
和田小学校の裏山が城山です。駐車場はありません。休日なら小学校の前のJAや公民館を利用させてもらっても大丈夫でしょう。小学校を抜けて登城口に行くので、連絡すれば学校内に停めることが出来るかもしれません。
城郭までの約30分の道のりはハイキングコースになっていまして、しんどさは近くの黒井城や竹田城と同じくらいです。城郭には石垣がしっかりと残っています。天守台やそれを見下ろす土塁は見事です。そこまでにも井戸や堀切など見所満載です。
すぐ近くに薬膳湯の入浴施設があります。温泉ではありませんが、広々していて500円とお値打ちです。
岩尾城の周辺スポット情報
登山口(その他)
蛇山の山頂部に位置する遺構は、東西約90mx南北約200mある。岩尾城の中心部と評価できる。内部の縄張りは、北部と南部で様相が異なる。南部の曲輪は天守台を中心に石垣が使われていた。一方、北部の曲輪は土塁や堀切で形成され、石垣は見られない。
南部の曲輪では、東・南・西側の周囲三方を高さ2~3mの石垣で固めている。石垣には折れと呼ばれる屈曲があり、通路に対して横矢とよばれる側射を加えることができる。石垣の中央、城内最高所にあるのが天守台。現存する天守台としては初期の事例といえる。東西6mx南北9mで、高さは約2mある。他の天守台と比べて比較的小規模なものといえよう。
登り口は明確でないが、北隅部分のスロープが可能性として考えられる。初期の天守台に多い穴蔵(地階)は確認できない。天守台の北側には、多量の瓦が散布している。天守から崩れ落ちたものであろうか。これは天守が瓦葺きであったことを示唆する。今後、瓦の体積状況を調査すれば、天守の構造を解明する手がかりとなるかもしれない。
天守台の南西には、両側を石垣で固めた虎口がある。虎口とは城の出入口のこと。敵の侵入を防ぐため、戦国時代になると複雑な構造に発達する。この虎口も直進して入ることが出来ない。石垣で囲まれた小空間を経て左に曲がって内部へと入る。
これは、2折1空間の虎口で、千田編年によれば第4類型Aにあたる。編年ではIV期とされ、天正4年(1576)から天正10年の間に位置付けられている。織田・豊臣時代以降に使われる虎口の手法と考えてよい。また、天守台南側の虎口は食違い虎口となっていた。天守台周辺の石垣作りの部分は、明智光秀の丹波平定より以後の遺構と推定出来るであろう。
南部曲輪の周囲は急斜面となる。その南側は鞍部を経て尾根が続く。この鞍部には堀切が設けられている。南部曲輪へは、この堀切底から西側斜面を通り、城の南西斜面をつづら折りに登る通路が確認できる。途中、南西斜面には石組みの井戸も残る。井戸の石積みは、一部岩盤をそのまま利用しており、現在も豊富な水量を保つ。
南部の曲輪の北側は、東西方向の大土塁が範囲を画す。この土塁は高さが2mあり、馬踏が天守台よりもやや高い。天守台を見下ろすような土塁の存在は、他の城では余り類例がない。土塁の存在により、南北の曲輪間の連絡も遮断されている。
北部の曲輪は、南部曲輪よりも低い。曲輪内はかなり広いが、石垣や瓦の散布は確認できず南部と様相が異なる。南東側には、スロープ状の土塁があり、南部との境の大土塁へと続く。
北部の曲輪には、三方から尾根が取り付く。北側尾根に対しては土塁囲みの曲輪と、土橋のある堀切を設けている。西側尾根も二重の堀切で区画している。
岩尾城の中心部についてまとめると、大土塁により北部と南部に大きく分かれる。南部は総石垣で瓦葺き建物が存在した可能性が高い。近世的な色彩が濃いと評価できる。一方、北部は中世城郭的な要素を強く残す。南側は明智・佐野氏時代の改修を受け、北側には和田氏時代の遺構が残ったと考えることもできるであろう。大土塁は、明智・佐野氏時代に南部曲輪に城域を限定するために築かれた可能性が高い。
蛇山は山頂部から四方に尾根が延びる。北側の尾根は、途中に標高307mのピークを経て、坂尻と応地の集落をつなぐ峠道が通る鞍部に至る。途中にも2ヵ所尾根上のピークがあるが、城の遺構は確認できない。現在、山頂の城跡以外に遺構の確認されているのは、南側尾根、西側尾根、東側尾根先端部の三ヶ所である。
南側の尾根は、大手道として城のメインルートであったといわれる。現在も和田集落からの登山道となっている。従来から「下知殿丸」や「南曲輪」、「大手門曲輪」の存在が知られていた。下知殿丸は、山頂部の城跡南側の堀切に続く尾根上に位置する。細長い曲輪が2~3段確認できる。一部には土塁とみられる遺構もある。
しかし、「南曲輪」とし「大手門曲輪」については風化のためか、現地表の観察では明確な遺構は確認できない。
西側の尾根は、標高330m前後で200mばかり西へと続き、その先で尾根が北・西・南の三方へ分かれて急激に下る。途中には3本の堀切状の遺構が確認できる。蛇山山頂の北部曲輪から西側尾根を進むと鞍部を経て西側尾根上の最高所に至る。ここは東西約35m、幅約7mのやや傾斜した平坦地となっている。この平坦地の東西両側に堀切状の遺構が設けられている。西側堀切の内側には、土塁状の高まりもある。一方、東側の堀切は完全に尾根を切断していない。山頂の城に対する西側からの攻撃を防ぐことを重視した縄張りと評価できる。西側の堀切から、さらに尾根を西へと下った鞍部にも堀切がある。この堀切の両側は曲輪とはならない。西側尾根の遺構は基本的に堀切のみであり、曲輪は伴わない。
岩尾城中心部にこの尾根が取り付くところには、二重の堀切があり連絡を遮断している。独立した曲輪としては機能せず、西側尾根からの岩尾城への攻撃を防ぐための阻障として機能したのであろう。
東側の尾根は延長約1.5kmもあり、西側や南側の尾根に比べて、独立性の高い頂が続く。尾根は山頂にある城の北部曲輪に取り付く。ここから尾根上を約300m東へ進むと標高310mの尾根ピークに至る。さらに、その東約400mで尾根は北東と南東に分岐する。南東に延びた方の尾根は、途中に標高258mのピークを経て牧山川の手前まで延びる。この尾根の途中には城の遺構は確認できなかった。しかし、尾根先端部には、城郭の可能性のある遺構が残されている。
ここは現在稲荷神社となっている。2本の堀切があり、堀切間の細長い曲輪とその北西尾根の削平地からなる。北西の削平地はかなりの広さがあるが、尾根続きに堀切などの防御施設を設けておらず、城に伴うものか判断できなかった。
また、2本ある堀切は明瞭であったが、堀切間は削平が甘く曲輪としては不十分である。さらに堀切間の東側斜面には、北側の堀切端から連続する竪堀状の痕跡があるが、これも城の遺構としては疑問がある。このように城としてはやや不十分な点がある。
しかし、この尾根先端は和田集落の東側を区画する自然の隔壁となっている。さらに尾根の先端は、和田城下町の南側を区画する牧山川と接している。このような立地からみて、蛇山山頂の岩尾城中心部を防御するためのものでなく、城下町の端を防御するための出城としての可能性が考えられるであろう。
これは、春日町の黒井城にある的場砦と性格的に共通すると考えられる。城郭遺構による城下町の区画・取り込みを示すものといえるかもしれない。このように考えることが可能であるならば、城下町の成立と対応して位置付けるべき遺構であろう。
和田氏以前の岩尾城城下町は、和田地区に集約化されず核となる町家が多元的に存在した可能性が高い。ただ、和田地区はこのように出丸により城との一体化を進めていた。また、南東尾根の出丸は、織豊期の城下町再編後も城下町域の東側区画として総構的な性格で機能し続けた可能性も考えられよう。