花巻城(はなまきじょう)
花巻城の基本情報
通称・別名
- 鳥谷ヶ崎城、鳥谷ケ崎城
所在地
- 岩手県花巻市城内
旧国名
- 陸中国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- 不明
築城主
- 稗貫氏
築城年
- 享禄年間(1528〜1532)
主な改修者
- 北信愛、北秀愛、南部氏
主な城主
- 安倍氏、奥州藤原氏、稗貫氏、北氏、南部氏
廃城年
- 明治2年(1869)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸、移築門、時鐘堂
指定文化財
- 市史跡(花巻城本丸跡)
再建造物
- 復元門(西御門)、模擬塀、説明板
周辺の城
-
小瀬川館(岩手県花巻市)[4.4km]
二子城(岩手県北上市)[6.8km]
寺林城(岩手県花巻市)[8.9km]
黒岩城(岩手県北上市)[9.4km]
毒沢城(岩手県花巻市)[11.0km]
岩崎城(岩手県北上市)[13.9km]
柳田館(岩手県紫波郡)[15.3km]
樋爪館(岩手県紫波郡)[16.3km]
野手崎城(岩手県奥州市)[16.8km]
大迫城(岩手県花巻市)[18.0km]
花巻城の解説文
[引用元:Wikipedia「花巻城」の項目]
花巻城(はなまきじょう)は、岩手県花巻市花城町にあった日本の城。古くは鳥谷ヶ崎城(とやがさきじょう)と呼ばれた。花巻市指定史跡(本丸跡)。盛岡藩の花巻郡代歴代の居城であり、関ヶ原の戦いの際にこの城で行われた花巻城の夜討ちは地元民や岩手県民の語り草となっている。
歴史・沿革
花巻城の地は、「内史略」や「奥羽永慶軍記」等には、前九年の役の安倍頼時の城柵と伝えられている。稗貫氏は室町時代には十八ヶ城(稗貫郡宮野目村)を本城としていたが、戦国期の享禄年間に本城を鳥谷ヶ崎(稗貫郡花巻村)に移した。周辺には八重畑館や大瀬川館など同じ稗貫一族の城郭が複数あった。
和賀・稗貫氏の一揆
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置によって稗貫氏は没落し、鳥谷ヶ崎城には秀吉の代官浅野長政が入部、長政帰洛ののちは同族浅野重吉が目代として駐留した。しかし同年の冬、旧領を奪還しようとする和賀氏と稗貫氏が一揆を起こした(和賀・稗貫一揆)。これによって、鳥谷ヶ崎城を含め稗貫氏の旧領も和賀・稗貫勢の手に渡ったが、翌天正19年、再仕置軍の侵攻により一揆は鎮圧された。同年中に稗貫郡は南部領と決められ、南部信直の代官北秀愛が城代として入り、城の改修が行われ、名称も花巻城と改められた。
天正20年(1592年)の諸城破却書上には、「鳥谷崎 平城 南部主馬助 持分」とある。
慶長3年(1598年)に北秀愛が死去し、かわって父の北信愛が城代となる。同5年(1600年)に南部氏が慶長出羽合戦へ出陣している隙を狙い、和賀忠親が旧領・和賀郡の奪還を目指して一揆を起こした(岩崎一揆)。和賀勢は花巻城や、大瀬川館など周辺諸城を攻め、花巻城の三の丸、二ノ丸を攻略して本丸に迫ったが、援軍を得た北信愛はそれを撃退した。
江戸時代
北松斎は慶長18年(1613年)に死去するまで花巻城および城下町の整備に努めた。その後、南部利直は次男政直に2万石を与え花巻城主とし、政直は花巻城を近世城郭として完成させた。その際に本丸に二層二階の櫓や多くの重層の城門が建てられた。一国一城令ののちも南部の抱え城として認められた。政直急死以後は城代が置かれ、花巻城は和賀・稗貫二郡を統括する政治の中心地となったが、明治2年(1869年)に廃城となって取り壊された。
考古資料
遺構
現在、建造物の遺構として残るのは円城寺門と時鐘堂(どちらとも花巻市有形文化財)だけであるが、城跡では本丸跡が昭和63年(1988年)9月1日に市指定史跡に指定されている。近年西御門が復元され、その周辺は歴史公園として整備されている。
円城寺門は、慶長19年(1614年)藩主南部利直の命により花巻城主となった南部政直が、和賀氏の居城であった飛勢城の追手門を移築し、花巻城三の丸搦手の円城寺坂に建てたので、円城寺門と命名された。江戸時代に4回ほど修築が行われ、その後も2回屋根の葺き替えが行われた。廃藩後の明治4年(新暦1871年/1872年)の花巻城取り壊しの時に北上市更木の福盛田氏に払い下げられ、解体して北上川を船で下り、自邸の門とした。昭和7年(1932年)に福盛田氏より花巻市の平野立乾(軍医)がこの門を買い、鳥谷ヶ崎神社境内東南隅に移設した。その後、老朽化の為大きく壊れていったが、昭和36年(1961年)に花巻市の助成金を受け、神社の東南口の現在地に復元移設された。
参考文献
- 【書籍】「岩手県史 第2巻 中世篇 上」
- 【書籍】「岩手県史 第3巻 中世篇 下」
- 【書籍】「角川日本地名大辞典 3 岩手県」
- 【書籍】「日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田」
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花巻城の口コミ情報
2024年01月28日 【配龍】沼田乃豆腐屋
十二丁目城標柱[花巻城 周辺城郭]
十二丁目城(獅子ヶ鼻城)
かつてこの地に、稗貫氏の重臣十二丁目氏の居城(平城)があった。天正18年(1590)稗貫氏の滅亡と共に十二丁目氏も滅び文禄元年(1592)にはその城も破却されたと伝えられている。
2024年01月28日 【配龍】沼田乃豆腐屋
上館[花巻城 周辺城郭]
平安時代(794〜1191)の11世紀の半ば、陸奥の豪族として奥六郡(胆沢地方から岩手郡まで)などの一帯を支配していた古代みちのくの名将安倍頼時が、中央の支配を排除して、地方の自治・独立を主張して抵抗し反乱した前九年の役(1051〜1062)の際、政府軍の将、源頼義が、この付近に陣所を置いたところと伝えられ、さらに後年、諸氏が館をつくって住んだと言われている。享保11年(1726)松井道円の作と目される和賀・稗貫郷村誌には、上記について次のように記されている。
「傅言此処古源頼義公御陣所。然是花巻城安部楯籠之間。政之向陣場歟。基後此村主又居之歟。此言上館以南故城為下館矣。」
現在は南城小学校が建っている。
校庭には奥州街道名残の松がある。
2023年07月05日 ファン掃部助トム治郎
花巻城
花巻城は慶長出羽合戦の際に和賀氏の残党が当家復興のために攻めたが結局とれなかった城です。北上駅から黒岩、二子と歩いていったので和賀氏の栄枯盛衰を感じさせる城でした。
2022年09月12日 きくちゃん
花巻城
花巻駅を出て、バスターミナルを右手に向かうと、坂を下って行く感じで進んでいくと、こんもりとした丘に門が見えます。縄張りがよく分かる城跡でした
2022年07月30日 RED副将軍
花巻城
盛岡藩花巻郡代の歴代の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。
1051年の前九年の役において安倍頼時が築いた城柵が始まりとも云われています。
その後は在地土豪の稗貫氏の居城となり鳥谷ヶ崎城と呼ばれていました。
1590年、小田原征伐に参陣しなかったことにより、豊臣秀吉の奥州仕置によって稗貫氏は所領を没収され没落。秀吉家臣の浅野長政が入部しました。
しかし、旧領を奪還しようと和賀氏と稗貫氏が一揆を起こします。見事に攻め落とし奪還しますが翌年には一揆は鎮圧され、稗貫氏は大崎氏を頼って落ち延びました。
その後、南部領となり南部信直家臣の北秀愛が城代として入城。花巻城と改められ、大規模な改修もされました。
1600年、南部氏が慶長出羽合戦へ出陣している隙を狙って再度、和賀氏は旧領の奪還を目指して一揆を起こします。本丸まで迫りましたが、北氏の援軍により撃退されました。
その後も和賀・稗貫二郡を統括する政治の中心地となり、近世城郭として櫓や多くの城門が建造されましたが、明治を迎えると1869年に廃城となり取り壊されました。
見所
現在は、本丸は歴史公園となり整備され、土塁や内堀、東端には菱櫓跡が残ります。
復元された西御門は本丸への正門であり内枡形を備えた櫓門。かつては野面積みの石垣で固められていました。
2022年05月17日 うっきー
花巻城
花巻駅から歩いて15分ほどで到着。円成寺門という移築門も近くにあるなど、いろいろと楽しめます。
2021年11月07日 ジョウ陸奥守
花巻城
本丸は、発掘調査中で、今後に期待できそうです!
2019年05月08日 織田上総介晃司
花巻城
武徳館に停めるわけにもいかず、武徳館を左手に見ながら右折して少し進むと土日祝日は開放している職員駐車場に停車。
花巻といえば、花巻温泉が有名ですが、それよりも二刀流・大谷翔平や菊池雄星の花巻東が頭に浮かびます。
2017年05月13日 鼓舞式部卿勘助
花巻城
なるべく近い駐車場を探したが、武徳殿駐車場が弓道大会で満車。西御門入口石段下の車道に停車用スペースが一台分あったので止めさせて頂きました。西御門の下は空堀になっているが、当時は水堀だったようです。南側から下に降りれました。