興国寺城(こうこくじじょう)

興国寺城の基本情報

通称・別名

高国寺城、根古屋城、杜若城、久窪城、深田山城

所在地

静岡県沼津市根古屋

旧国名

駿河国

分類・構造

連郭式平山城

天守構造

不明

築城主

北条早雲

築城年

15世紀後期

主な改修者

主な城主

後北条氏、武田氏、松平氏、中村氏、天野氏

廃城年

慶長12年(1607)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

国史跡(興国寺城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

沼津城(静岡県沼津市)[6.7km]
長久保城(静岡県駿東郡)[7.5km]
間門城(静岡県富士市)[8.8km]
泉頭城(静岡県駿東郡)[9.5km]
戸倉城(静岡県駿東郡)[9.8km]
葛山城(静岡県裾野市)[10.6km]
善得寺城(静岡県富士市)[11.2km]
長浜城(静岡県沼津市)[15.6km]
韮山城(静岡県伊豆の国市)[16.7km]
韮山代官所(静岡県伊豆の国市)[16.9km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)145 興国寺城

設置場所

穂見神社境内(興国寺城跡本丸内説明板横)[地図
沼津市文化財センター[地図
浮島地区センター・浮島市民窓口事務所[地図

興国寺城の解説文



興国寺城(こうこくじじょう、根古屋城とも)は、静岡県沼津市根古屋(駿河国駿東郡阿野荘)にあった日本の城(平山城)。城跡は国の史跡に指定されている。 興国寺城敷地内には穂見神社が存在する。

地勢 

興国寺城は静岡県東部の愛鷹山南麓に位置している。愛鷹山南麓の地形は連続した傾斜面となっているが、興国寺城付近は谷底平野を一部伴った侵食谷によってブロック状に緩斜面が分断されている。また山麓部から低地への移行部には小扇状地が形成され、旧浮島ヶ原の低湿地につながっている。興国寺城の立地は、城の東西は開析された侵食谷の深さと谷壁部分の急斜面、そして南方の浮島ヶ原の低湿地を天然の要害として利用した、地形を生かした典型的な城郭の立地といえる[1]

愛鷹山麓には東西方向に根方街道が通っている。また興国寺城の直下から浮島ヶ原を通って千本浜方面へ向かう竹田道があり、興国寺城は東西方向と南北方向の道が交わる、交通の要衝に築造された[2][3]

また愛鷹山南麓は厚いローム層に覆われている。興国寺城を構成する各曲輪の地表は、おおむね中部ローム上面、黒色帯、スコリア層のいずれかとなっている。これらは硬い地層であるために地盤改良の必要性が低く、愛鷹山南麓のローム層の特徴を生かした築城が行われている[4]

構造 

興国寺城は北側から北曲輪、伝天守台、本丸、二の丸、三の丸、そして東側の清水曲輪によって構成される連郭式の城である[5][6]。江戸時代初期に描かれたと推定される、興国寺城の最終期のものであると考えられる絵図面が残されているが、絵図面の記載はおおむね現存する興国寺城に一致するものの、北曲輪、清水曲輪については記載されておらず、江戸時代初頭の段階では北曲輪、清水曲輪は使用されなくなっていたものと考えられている[7]

発掘調査の結果、興国寺城で最も古い段階は一番南側の根方街道沿いの三の丸を中心として、二の丸から本丸南端の虎口付近でまでであったと考えられている。出土した遺物から三の丸は16世紀半ば頃までに築城されていたと考えられ、当時の城は沼地に突き出るような地形であったと考えられている。本丸の排水路の石組みからは宝篋印塔を転用しているのが検出されていて、後述の今川義元が天文18年(1549年)、興国寺に移転を命じ、その跡地に興国寺城を築城したという記録との関係性が注目される[8]

その後、興国寺城は北側に城域を拡大したものと考えられる。16世紀後半台には城の南限は二の丸、北限は北曲輪となったものと見られている。また東側の清水曲輪も16世紀後半台から興国寺城の城域となったと考えられている。この時期の築城の主体は、丸馬出し、三日月堀の存在から武田氏によるものであることが想定されている。16世紀後半台、北条氏との攻防が激化する中で、防御性を高めるために山側にシフトした形で改築されたものと考えられている[9]

続く徳川氏の時代、三の丸から北曲輪、そして東側の清水曲輪と、興国寺城の城域が最大規模となったと考えられている。武田氏の滅亡後、駿河の徳川氏支配が確立すると、現在の静岡県域では拠点となる城郭に機能を集中する動きが確認されており、興国寺城も多くの軍勢が駐屯可能な徳川氏の拠点のひとつとして改修されたと考えられている。また大兵力を動員した小田原攻めが興国寺城の拡張、改築に影響した可能性が指摘されている[10]

その後、豊臣家の支配時代になると、現在の興国寺城の遺構と同じく、伝天守台を北限、三の丸が南限という形となったと見られている。この時期には北曲輪、清水曲輪は城外となった。豊臣家の時代は関東に移封した徳川家康に対する押さえという意味があり、興国寺城の存在意義があったものの、関ヶ原の戦い後になると興国寺城の存在意義は小さくなり、東海道や根方街道から見える場所に石垣や天守を設けるなど、見せる城としての様相が濃くなっていた。大空濠もこの時期の遺構であると考えられている。天野康景の出奔後、慶長12年(1607年)に興国寺城は廃城となるが、これは興国寺城の重要性が低下していたことによると考えられている[11]

歴史 

沼津は戦国時代、今川氏、武田氏、北条氏という三戦国大名による激しい争奪戦が繰り広げられた。支配者の交代も頻繁であり、各勢力の最前線として多くの城郭が築城された。そのような中で興国寺城は各勢力によって盛んに改修が行われていった[12][13]

『今川記』、『北条記』によれば、長享元年(1487年)、室町幕府官僚であり今川氏の客将であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、今川氏の家督争いでの活躍により富士下方十二郷を与えられ、興国寺城を本拠地としたとされている[14][15]。その後、早雲は、幕府管領・細川政元の足利義澄の将軍擁立と連動して伊豆に侵入し、伊豆国を治めていた堀越公方の子・足利茶々丸を将軍・足利義澄の母と弟の仇として討つという大義名分のもとに滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城に移ったとしている[16]

上記のように興国寺城は長享元年から北条早雲が伊豆に移るまでの間、本拠地としていたというのが定説であるが、北条早雲が興国寺城を本拠地としていたことを示す同時代の史料は見つかっていない。同時代の史料で興国寺城が確認出来るのは、後述する天文18年(1549年)、今川義元が駿河国善得寺(富士市今泉)の末寺である興国寺に、築城用地とするために移転を命じた文書が初出となる。また北条早雲が今川氏から与えられたとされる富士下方十二郷とは富士市北東部に当たり、沼津市の市域となる興国寺城がその範囲に含まれるかどうかについてははっきりとせず、興国寺城は早雲の領地外であった可能性がある。このように長享元年に北条早雲が興国寺城に本拠を定めたことについては確証が持てない[17][18]。これについて小和田哲男は興国寺城の西隣りにある方形の遺構を早雲期の城館と推定し、伊礼正雄は現城跡のうち三の丸を除いた部分を早雲期に利用していたのではないかと考えている。

この城のある駿東郡の地は、今川・武田・北条各氏が奪い合った。天文5年(1536年)、当時北条氏と敵対関係にあった武田信虎と今川義元が和睦したことに不満をもった北条氏綱が駿東郡に進出し、北条氏の支配下に入った。『甲陽軍鑑』によると翌天文6年(1537年)に興国寺城を守っていた北条方の城番・青地飛騨が武田信虎に寝返って同氏の被官となり、興国寺城はその後行われた今川義元と信虎息女の婚姻に際して化粧料として今川方に引き渡されたというが、前述のように築城時期そのものが不明であるために史実かどうかは確認できない。

天文14年(1545年)今川義元は、武田信玄、上杉憲政らと連合し、駿河と武蔵で同時に北条氏に対して軍事行動を起こした(河越城の戦い、第2次河東一乱)。北条氏の駿河の拠点・長久保城を包囲して攻撃し、武田氏仲介の和睦によって駿東郡を取り戻した。この間興国寺城周辺も戦火にさらされたとみられ、永禄元年(1558年)に今川義元が興国寺城から西に1.4km離れた阿野荘大泉寺(沼津市東井出)に文書を発給して寺領を安堵しているが、その中で「河東一乱の際、大泉寺がたびたび炎上、大破した」ことに触れている。

天文18年(1549年)、今川義元が興国寺及び周辺の田畑を城地とするため、同寺に移転するよう命令する文書を発給しているため、少なくともこの時期に相応規模の城郭の整備がなされたと考えられている。この後、天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟が締結されたため、興国寺城周辺は緊張状態から脱した。ただし、同盟交渉自体が数年前から行われているため、大石泰史は興国寺城の改築と同盟交渉が被ってしまうことになるため、両者は関連性があると考えられるとし、同盟の交渉が興国寺城で行われ、現在では俗説とみなされている「善徳寺の会盟」が実は「興国寺の会盟」であった可能性もあるとしている[19]

永禄11年(1568年)12月、武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻、北条氏康は今川方の援軍として興津(静岡市清水区)まで兵を出すが、この際に興国寺城を自領に収め、垪和氏続を城番(のち城主)に任命し、垪和は城の改修を実施している。その後、武田信玄は興国寺城を攻撃するものの、氏続は守り切ったことが元亀元年(1570年)1月12日に北条氏政が発給した文書から確認できる。元亀2年(1571年)に甲相同盟が再び成立すると、興国寺城は武田氏に引き渡された。

天正7年(1579年)に武田・北条が再び交戦状況となると、武田勝頼は北条領との国境近くの沼津港に三枚橋城を築城し、城番に重臣の春日信達を配置したため、興国寺城はその後方拠点という位置付けになった。

天正10年(1582年)3月、武田氏が滅亡すると興国寺城は徳川領となり、徳川家康ははじめ牧野康成、次いで竹谷松平家の松平清宗を2,000貫で配した。

天正17年2月5日(1589年3月21日)申刻(現在の15時〜17時)に駿河国で大地震が発生、興国寺城・長久保城沼津城の塀や2階門が損壊した。[20]

天正18年(1590年)に家康が関東へ入封されると駿河を所領とした中村一氏の家臣・河毛重次が在番した。重次が大泉寺・愛鷹明神に所領を安堵した文書が現存している。

慶長6年(1601年)徳川氏創業の功臣として興国寺城の城主となった[21]天野康景が1万石で入封し興国寺藩が立藩するも、康景は領内の問題で責めを負いその裁定に不満を募らせて出奔。そのため興国寺藩は改易となり、慶長12年(1607年)3月に廃城となった。

平成7年(1995年)3月17日、国の史跡に指定された。沼津市根古屋にあり、現在復元工事が行われている。

平成29年(2017年)4月6日、「続日本100名城」(145番)に選定された[22][23]

遺構・遺物 

遺構

伝天守台

  • 礎石建物跡2棟
    • 西棟:2重の石列
    • 東棟:外縁南側と西側にL字状に石列、内側にも配石。
      • 瓦は出土していない。
    • 石垣
      • 形態:野面積み
      • 規模:天場の長さ約24メートル、下端の長さ約13メートル、高さ4メートル(推定)
        • 「城築規範」興国寺城図に描かれている。

    本丸

    • 城門跡:規模は東西約5.4メートル南北3.6メートル。東西に幅20メートルほどの土塁基底部が確認されている。
    • 石組水路:宝篋印塔の石材転用が確認されている。石組水路の総延長は約60メートル。北側礎石列の外側に約4メートルの長さの排水溝跡がある。

    土橋・空堀

    • 空掘
      • 規模:幅約13メートル、本丸側の深さ7メートル、二の丸側の深さ3メートル
      • 堀底:薬研堀だが、中段で箱型になっている。
        • 堀底に不整合な部分があり、改修の跡と推測されている。
      • 土橋
        • 構造:空掘を掘る際に中部ローム層を削り残して橋としたもの
        • 規模:二の丸側幅約7メートル、本丸側幅5メートル、長さ約10メートル

      二の丸

      • 三日月堀
        • 規模:長さ約37.8メートル、最大幅約4.3メートル、堀底幅約0.8メートル、深さ約3.8メートル
        • 堀底:薬研堀
        • 遺物:大釜第3段階(1570年代〜1590年代生産)の擂鉢、大釜第1・2段階のもの数点。大釜第4段階併行期のもの1点。

      三の丸

      • 空堀
        • 構造:3箇所に屈曲あり、掘り直しによる2重堀
        • 遺物:大釜第2段階の丸皿
      • 土塁…平行に二列
        • 遺物:基底部から志都呂擂鉢(16世紀末ころ)
        • 遺物:擂鉢、かわらけ(16世紀第4四半期)
      • 土塁の下層
        • ピット群
          • 遺物:大釜前半段階の丸皿などの細片
        • 版築遺構
          • 遺物:灰釉陶器、灯明皿
        • 堀状遺構

      北曲輪

      • 三日月堀
        • 現状:新幹線によって大部分が破壊されており、一部分が残っている。出土遺物がないため、時期は不明。
      • 空掘1
        • 規模:三日月堀の中心付近と思われる点に土橋。
          • 土橋を挟んで西側は薬研型…上幅約13メートル、堀底幅約1メートル、深さ約7メートル(深さ約2メートル地点で段あり)
          • 土橋を挟んで東側は箱型…上幅約12メートル、堀底約1.3メートル、深さ約5.4メートル(深さ約2メートル地点で段あり)
            • 土橋・空堀の空堀の形状、堆積状況に共通点あり。
          • 空掘2
            • 規模:空掘1とほぼ平行。上幅約10〜13メートル。堀底までは未堀。
            • 堆積:南側からの埋土に、下部ロームの岩盤屑が含まれている。

          大空堀

          • 規模:幅は22〜30メートル、深さは約15〜20メートルと、一定していない。
          • 構造:2段構造になっており、堀底は薬研型、北側に箱堀部分がある。
            • 下部ロームまで掘り込まれており、古い段階の堀も確認されているため、現在の堀は掘り直された可能性がある。

          清水曲輪

          • 堀切
            • 規模:幅13メートル、残存する深さは4.5メートル(薬研掘)だが、後に深さ2.8メートルの箱掘に改修されている。
            • 構造:2回の「折れ」あり。古い段階の大空掘とほぼ1直線に並んでいる。
          • ピット群
            • 詳細は不明。

          出土品

          伝東船着場跡からは細片の土器片が混合で出土した。出土した土器の時代と形状は以下のものである[24]

          • 縄文土器
          • 弥生土器
            • (弥生時代中期)壺型土器、鉢形土器[25]
            • (弥生時代後期)壺型土器[26]、甕形土器[27]土師器
          • 古墳時代
            • (古墳時代初期)壺型土器、甕形土器[28]、高坏形土器、長頸壺[29]、平瓶
            • (古墳時代後期)坏形土器、甕形土器、坏身、高坏
          • 律令時代 坏型土器、甕形土器、坏須恵器
          • (時期不明) 陶磁器磁器陶器(茶碗、壺、摺鉢)石器[30]

          アクセス 

          興国寺城へのアクセスは下記2つの方法がある。

          • 徒歩:最寄り駅であるJR原駅 (静岡県)より徒歩約30分。
          • バス:JR原駅 (静岡県)、沼津駅、富士駅の各駅より富士急バスにて東根古屋にて下車、徒歩3分。

          なお、原駅からは約10分で東根古屋バス停に到着、東京方面からは、沼津駅南口より富士急バス根方線で約30分、静岡方面からは、富士駅より富士急バス根方線で約60分を利用することができる[31]

          出典 

          参考文献 

          • 【書籍】「北条早雲の城郭」
          • 【書籍】「二つあった興国寺城」
          • 木村聡、高尾好之「沼津市興国寺城 : 発掘調査から見る城の変遷」『山城の実像を問う(https://www.komazawa-u.ac.jp/~kazov/chujoken/semi2012/)』第29回 全国城郭研究者セミナー、中世城郭研究会、2012年8月4, 5日。
          • 山本惠一「興国寺城」『静岡県における戦国山城』2009年度静岡県考古学会シンポジウム資料集、静岡県考古学会、2010。
          • 黒田基樹『戦国 北条一族』新人物往来社、2005年。ISBN 440403251X
          • 黒田基樹『北条早雲とその一族』新人物往来社、2007年。ISBN 978-4-404-03458-8
          • 柴辻俊六『武田信玄合戦録』角川学芸出版〈角川選書〉2006年。ISBN 4047034037
          • 平山優『武田信玄』吉川弘文館、2006年。ISBN 4642056211
          • 市村高男『東国の戦国合戦』戦争の日本史 10、吉川弘文館、2008年。ISBN 978-4-642-06320-3
          • 有光友學『今川義元 』吉川弘文館〈人物叢書〉2008年。ISBN 978-4-642-052474

興国寺城の口コミ情報

2022年03月21日 フー甲斐守
北曲輪登城口[興国寺城  その他]



北曲輪は整備されているとは言えませんが、早春なら入っていけました。新幹線の通過写真も撮れますよ♪

2022年01月23日 涼丸
興国寺城



宗瑞公の最初の城。メインは大堀切。整備されてるので降りて見上げると、良くぞ掘ったなぁと感嘆。まぁ天守台の直下だから登られたくはないよね。
ルートは天守台から降りた方が楽かと。東の土塁もからも行けるけど大堀切から天守台に登るの大変でした笑

ほとんどは整備されますが、北曲輪は入り口までで清水曲輪は全くの手付かず。鋸と鉈とロープ必要かな笑。滑落上等な方は一応大堀切から東に周れば行けます。

一つ惜しいのが説明板。今は研究もされていて、今川家に嫁を出せるほどの幕府の役人で、仕事で来ている事もわかってるんだけど…妹を頼ってきたことになったまま。これじゃ出来の悪い兄貴だよー笑
写真は案内図、大堀切二枚、清水曲輪とだろうと思われる小山(薮)です

2022年01月14日 千葉相模守早雲
興国寺城



連郭式の城郭。本丸の北側に天守台、東西には分厚い土塁が伸びており、コの字形に囲われる。天守台の西側は櫓台跡があり、見晴らしは抜群です。

天守台北側には大空堀があり、北曲輪と分けています。最大の見せ場は大空堀!この深さは必見です。大空堀西端は岩盤を削った堀切があります。東端は竪堀となっているように見えますが、当時は蓮池があり、船着場があったようです。

興国寺城、韮山城、小田原城と早雲の居城が徐々に大きくなるを見ていくのも一興です。

2021年12月31日 左馬助トムトム
興国寺城



電車で行かれる方に。JR原駅から、バスがありますが、本数が少ないです。片道2kmちょっとなので歩けない距離ではないですが、私は往路はタクシーを使いました。1050円でした。裏道通ってくれるので、帰りの参考になります。

2021年12月12日 【城郭道】尾張守たっきー
天守台[興国寺城  遺構・復元物]

本丸の江戸時代にこの地にもたらされた穂見神社の奥にある天守台と伝わる場所。
瓦が出土していないため、実際には天守がなかったと伝わる。

2021年10月26日 なな左兵衛佐
興国寺城



二の丸のあたりまで車で入れます。続100名城スタンプは神社横の説明板前

2021年07月30日 相模守新九郎
興国寺城



伊勢宗瑞の城として名高い興国寺城、背後の大空堀の規模は壮大です✨しかし、これがいつ築かれたのかは謎。北条・武田・中村・天野・・・発掘調査による解明が期待されます。

2021年06月27日 みっちゃん
興国寺城



車で行きました。無料の駐車場から少しだけ歩いて階段を登った所にプラスチックの箱の中に続100名城スタンプが入っていました。土塁も見ることが出来ました。遠くに海も見えました。

2021年05月05日 オコジョ中務少輔
S Kimura[興国寺城  御城印]



沼津四大城御城印プロジェクトのうち興国寺城の頒布場所の一つ。他に野崎園とお茶の興国園の二つがあります。ここは完売しているので、他の二箇所でまだ買えます。

2021年03月12日 NAO.H
興国寺城

空堀の跡など見所が沢山あります! まだ、整備が終わっていないので、是非皆さんに見学に来て貰い盛り上げ⤴️⤴️て欲しいです!

2021年02月21日 Taka刑部卿rich
興国寺城



昨年12月19日に行った時は城内遺構の発掘調査はやっていませんでしたが、昨日行くと天守台の側なども含めて発掘調査を始められたみたいです。何か出てきているのがわかります。

2021年02月19日 ☀みどりいろ左近衛大将たおる☀
興国寺城

現在、興国寺城の『御城印』は全て売り切れで無いそうです😵
ただ、御城印を求めて行った所の女性職員さんの『個人的な想像』によると、4月6日(城の日)に『NEW御城印』なる物が販売されるかも・・・との事でした😆
『これはあくまでも、私の個人的見解なんだけどね(女性職員)』との事ですので悪しからず✌😁✌

2021年02月19日 ☀みどりいろ左近衛大将たおる☀
興国寺城



登城した時に丁度、皆さん(ボランティアさん?)がお城の『発掘調査』をされていた😆
ホント頭が下がります😄この様な方々のお陰で僕達が楽しませて頂いてます✌😁✌


2021年02月09日 マークⅡ大宰少弐政宗
興国寺城



原駅から、徒歩30分。本丸は、現在館跡の発掘調査中で、ブルドーザーが駐車中。

2020年11月02日 勝幡美濃守絵振之助
興国寺城



素晴らしく長く高くダイナミックな土塁と空堀。大感動。

2020/10/31時点の情報。
穂見神社境内にある続百名城スタンプは健在ですがインクが切れかかっていてとても薄いです。記念ノートにいたずらする人の無駄遣いが気になります。

2020年10月04日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
阿野館[興国寺城  周辺城郭]

源義経のことをご存知の方なら今若、乙若という常盤御前を母とする同腹の兄がいた事をご存知かと思います。その今若が成長し、阿野全成の館跡です。興国寺城の前の県道22号線を西に一キロ程度向かった道沿いにあります。保育園と大泉寺の看板があります。
小さいので30分程度で見学できます。
興国寺城に行くついでにセットで行くと良いかと思います。

2020年07月10日 ▲三ツ鱗▲
興国寺城

問い合わせ先の沼津市文化財センターの電話番号が、変更されていました。

055-935-5010

2020年07月10日 ▲三ツ鱗▲
興国寺城

沼津市文化財センターにスタンプが有りますが、こちはら平日のみオープン。午後5時15分には閉館となります。

2020年04月05日 ペスカトーレ
興国寺城



続日本100名城にも選ばれていて、スタンプが有ります。

大きな本丸,二の丸,三の丸が有り、天守台跡と大空堀が明確に残っています。大掛かりな土木工事をして、規模が大きな城を築いていた事が分かります。

整備計画が有るみたいですが、現状でも十分整備されていて、城跡好きならかなり楽しめると思います。

2019年10月16日 一橋中務大輔三郎
興国寺城

10/15現在、スタンプは復活しています。

2019年10月06日 美濃守不識庵拾玖
興国寺城

スタンプ現在破損中とのことです。月〜金なら役所で代理のシールがもらえるとか…泣く泣く退散しました…

2019年09月22日 椿治部少輔
興国寺城

北側土塁と本丸駐車場からの道が交わり、大堀切へと降りる三叉路の近くに蜂がいますので、気をつけてください。静かに通り過ぎれば大丈夫かと。立ち止まらないように

2019年05月22日 ago主計頭
穂見神社境内[興国寺城  スタンプ]

私が行った時はスタンプ出てましたが、箱に入れておくのが正解かと…

2019年05月22日 ago主計頭
整備計画の図[興国寺城  碑・説明板]



整備計画の図
公園化するんでしょうか?


2019年05月11日 眞田左衛門佐十兵衛
穂見神社境内[興国寺城  スタンプ]



穂見神社の隣に続100名城スタンプがあります!

2019年03月28日 ドラガン尾張守店長
興国寺城

原駅から徒歩で約30分。
興国寺通りを北上すると、愛鷹山南麓にある。
本丸下に神社があり、その右脇から丘を登ると、すぐに本丸。
後ろは大空堀、その土を盛った小高い丘の要塞。
戦国時代の幕開け、伊勢新九郎が旗揚げした城。
そして、関ヶ原後に幕府の代官から足軽を庇った天野康景が出奔して廃城になった。
歴史的に、非常に面白い城跡です。

2019年01月01日 かわきち左大臣
興国寺城

アクセスは↓の方を参照してください。タクシーは原駅から1010円でした。バスの本数がかなり少ないので(土休日は特に)、要注意です。元日は営業している店も少なく、途中のマクドナルドで休憩しました。

2018年10月17日 京急渡島守ドレミファ♫
興国寺城

【アクセス】
原駅からバスもありますが、本数が乏しいし歩ける距離なので「タイミングが合ったら」というスタンスで望みましたが、往復とも徒歩で。
駅からは旧東海道を東進し「原交番東」交差点を左折、「興国寺城通り」を北上して一直線です(徒歩30分強)。
途中、飲食店やスーパー等が結構あるので、休憩がてら準備を整えて行けば、そんなに苦にはならない道中です。

【スタンプ】
城内の神社横の箱の中にあり、今後に不安はありますが、現状は良好です。

【見どころ】
見られる範囲が限られてはいますが、本丸の土塁、天守台辺りからの絶景(海も見えます)はもちろん、何と言っても天守台裏手の大空堀の迫力が素晴らしい!
滞在時間は1時間弱でしたが、見どころ満載でした♪

【その他】
城内のトイレは簡易タイプです(^^;)

2018年10月14日 織田上総介晃司
興国寺城

案内板が無いため興国寺城へのアクセスは分かりづらい。今後案内板の設置を望みます。

駐車場は本丸と三の丸にあります。
道は広くなく歩行者と共有なので軽やコンパクトカーが本丸に、ミニバンは三の丸に停めたほうがいいでしょう。

土塁と大空堀は圧巻です。


2018年04月21日 太政大臣 浜べい
興国寺城

バスの時間が合わなかった為、原駅からgoogleマップを見ながら歩きました。駅にも途中にも何も案内が無いため、指示通り行くと大堀切の向こう側新幹線の線路脇まで行ってしまうので注意。
東根古屋バス停周辺にも特に案内がないのです。


2018年04月20日 中務卿一之介
興国寺城

JR原駅または沼津駅から、富士急のバスがあります。最寄りのバス停は「東根古屋」です。私は原駅からの「原駅循環ミューバス」で行きました。このバスについての注意があるので、書かせていただきます。
前記のミューバスには東回りと西回りがありますが、「東根古屋」バス停は、西回りにはありません。これは恐らく、道路の幅員と交差点の位置の問題で、バス停を設置できないためと思われます。このため、西回りに乗る場合は、「根古屋南」または「根古屋」バス停で降りてください。なお、「東根古屋」バス停には、なぜか止まらないはずの西回りの時刻も書かれているので、騙されないように!(私は見事に騙されました)


トイレは、本丸跡の神社横に仮設タイプのものがあるだけです。

静かな城跡付近とは対照的に、国道方面へ続く近隣の道路沿いには、コンビニ、飲食店等がありますので、休憩処には困りません。

2018年04月08日 陸奥守たろす
興国寺城

至近に案内板や看板がないので入口がわかりませんでした。2016/12/18【単騎駆】かげちゃん様の口コミの通りですが、続100名城になったので、もう少しアピールあると良いかな。補足として画像アップさせて頂きます。ただ、続100名城だけあって、土塁、大空堀は必見です。(^-^)v

2017年05月08日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
興国寺城

バスでもこれます。
あまりアップダウンなく遺構を楽しめます。
神社があります。
何時でも入れます。

2016年12月31日 まー刑部卿
興国寺城

本丸の土塁のデカさに圧倒された。車はその本丸に駐車。案内板・説明板の上に天守台の石垣を観て天守台の礎石?の裏に大空堀。下に下りて大空堀を歩くと二つの穴を見つける。それが戦争遺跡なのかわからなかった。謎の穴である。大空堀から道路に出て北曲輪に向かう。新幹線の通過音もよく聞こえ横断橋からも見えた。北曲輪は除草はされていたが何もなく大空堀を横切り石火矢台?のほうへ向かう。窪地みたいのは何?ってカンジでした。二の丸、三の丸は特に観るものなかった。

2016年12月18日 右衛門督かげちゃんⅢ号
興国寺城

浜松・静岡方面からだと、国1号線原東町交差点を左折し直進して下さい。根古屋の交差点(T字路)に突き当たったら、右折して根古屋のバス停そばの細い道に入れば、興国寺城跡に着きます。細い道の道幅は、車1台分しかないので注意して下さい。東名を使うなら、清水ICで降りる事をお薦めします。天気が良いと由比辺りから富士山を眺めながらのドライブになりますよ~(´▽`)ノ

2016年12月18日 右衛門督かげちゃんⅢ号
興国寺城

本丸跡(天守台跡)と北の丸跡との間にある空堀の深さは、一緒に写っている杉の木を見比べてもらうと判ると思います。

2016年01月10日 田部朝臣土持安房守
興国寺城

 国指定らしく、実にすっきり整備がされており大変眺望が良い。また駐車スペース、トイレも問題がない。
 ただ、予算の関係か北曲輪と清水曲輪、元沼であったという東船留は手つかずで西船留は完全に住宅地である。
 特に北曲輪は雑草の海であり、大空堀までのアプローチはきわめて困難で、冬であったから可能であったが、夏場では全く見通しがきかなかった事だろう。
 ただ、現地の古地図では、北や清水という郭は無いので整備が無いのは当り前なのか?


2014年07月25日 三日陸奥守落人
興国寺城

平成15年から続く発掘調査はまだ続いているようですが、遺構はしっかり整備されていておおむね歩いてまわれます。

この城は富士山麓に続く傾斜地にあって、城内より城外のほうが土地が高い、いわゆる「穴城」。
遺構も大変面白く、特に本丸北側の大土塁と大堀切は必見です。

城内に駐車スペースもありますが、夏はアブなども多いようなのでお気をつけて。


興国寺城の周辺スポット情報

 大堀切(遺構・復元物)

 西側の土塁(遺構・復元物)

 天守台(遺構・復元物)

 西櫓台(遺構・復元物)

 空堀跡(遺構・復元物)

 東側の土塁(遺構・復元物)

 清水曲輪(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 北曲輪(遺構・復元物)

 天守台石垣(遺構・復元物)

 整備計画の図(碑・説明板)

 阿野館(周辺城郭)

 穂見神社(寺社・史跡)

 本法寺(出城跡)(寺社・史跡)

 S Kimura(御城印)

 お茶の興国園(御城印)

 穂見神社境内(スタンプ)

 簡易トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 登城口(その他)

 北曲輪登城口(その他)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore