鍋城(なべじょう)

鍋城の基本情報

通称・別名

鍋倉城

所在地

熊本県球磨郡多良木町黒肥地字鍋城

旧国名

肥後国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

上相良氏

築城年

鎌倉時代

主な改修者

主な城主

上相良氏、相良氏、税所源兵衛尉

廃城年

不明

遺構

曲輪、石垣、堀切

指定文化財

町史跡

再建造物

周辺の城

赤池城(熊本県人吉市)[17.5km]
人吉城(熊本県人吉市)[17.7km]
渡利城(熊本県球磨郡)[21.9km]
向山城(宮崎県東臼杵郡)[25.9km]
飯野城(宮崎県えびの市)[26.5km]
小川城(宮崎県児湯郡)[27.2km]
加久藤城(宮崎県えびの市)[27.6km]
須木城(宮崎県小林市)[28.1km]
小林城(宮崎県小林市)[32.0km]
高尾城(熊本県葦北郡)[33.0km]

鍋城の解説文



鍋城(なべじょう)は、熊本県球磨郡多良木町にあった中世の日本の城(山城)。

概要 

熊本県球磨郡多良木町黒肥地字鍋城の丘陵南端の標高222mに位置する。東西にそれぞれ小椎川と栖山川が流れ、南麓で合流している。南西側の登城口に大手下の字名が残る。丘上にはかつて長さ43m、底幅5.5mの堀切があり、南側が本丸と二の丸の2区画に分かれていた。

歴史 

当城は上球磨の要地にあり、古くから上相良氏(多良木氏)の本拠地だった。文安5年(1448年)に多良木頼観・頼仙が永留長続に雀ケ森で討ち取られると、上相良氏は滅亡した。これにより相良氏本宗は長続が継ぎ、多良木氏の旧領は子の頼泰に与えられた。

長享元年(1487年)に陰謀が発覚して頼泰が殺されると、多良木城や鍋城は宗家の相良為続の支配下に戻った。天文14年(1545年)には、頼泰の孫で八代岡の地頭・相良治頼を推戴して人吉衆が反乱を起そうとしたが、計画が漏れて治頼は鍋城に拠ろうとした。しかし城代の税所源兵衛尉が入城を拒み、治頼は耳取原で戦って敗れた。永禄2年(1559年)の獺野原の戦いでは東長兄ら人吉勢が当城を本拠とし、湯前城の丸目頼美らに対峙している。

参考文献 

  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(43.熊本県)』、角川書店、1987年

鍋城の口コミ情報

2024年11月30日 甲斐弾正大弼富士之介
相楽頼景館[鍋城  周辺城郭]



球磨川北岸の堤防沿いに土塁が堤防上の道路と直角に残っています。道路側に標識が有り、簡単な解説が書かれています。現状は耕作地です。相良氏の出発点ともなった館跡を一度訪ねてみては如何でしょうか。

道路は狭いですが近くの蓮華寺跡に隣接して広くなっている場所があり、駐車可能です。相楽頼景館と表記しましたが、相良と表記されている方が多いかもです。参考にした資料では相楽と表記されていたのでそちらに従いました。

2024年11月30日 甲斐弾正大弼富士之介
里の城[鍋城  周辺城郭]

鍋城の外城とされるも詳細不明です。球磨川北岸の段丘上に案外大きな土塁が県道の交差点の一角に残されていますが、標識も解説板も有りません。

2024年11月25日 甲斐弾正大弼富士之介
鍋城

2024年11月23日現在標柱が立つ入口からすぐのところに虎口跡の石垣までは問題ありませんが、その先は至るところな倒竹のバリケードがあり進めません。無理して少し進みしたが、城の中心部は隙間なく倒竹があり踏み跡も無く撤収。九州の山城は荒れているので注意してください。

2018年05月20日 ベルちゃん美濃守
鍋城

県道266号線から入ってきました。城跡は石垣が少し残ってるくらいで、それ以外は城跡な感じは残ってませんでした(T_T)

2012年02月12日 初代征夷大将軍天下一の号
鍋城

石垣は残っていますが、城は竹やぶで覆われてしまっています。

鍋城の周辺スポット情報

 鍋城跡登口(碑・説明板)

 里の城(周辺城郭)

 相楽頼景館(周辺城郭)

 湯前城(周辺城郭)

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