小峰城(こみねじょう)
小峰城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 長崎県東彼杵郡川棚町五反田郷
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 戦国時代?
主な改修者
- -
主な城主
- 後藤氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
松岳城(長崎県東彼杵郡)[6.7km]
広田城(長崎県佐世保市)[6.9km]
湯野田城(佐賀県嬉野市)[10.0km]
針尾城(長崎県佐世保市)[12.2km]
住吉城(佐賀県武雄市)[13.2km]
唐船城(佐賀県西松浦郡)[14.5km]
好武城(長崎県大村市)[16.1km]
塚崎城(佐賀県武雄市)[17.0km]
佐世保城(長崎県佐世保市)[17.2km]
大智庵城(長崎県佐世保市)[18.0km]
小峰城の口コミ情報
2025年05月24日 龍馬備中守【】
小峰城
長崎県東彼杵郡の川棚町五反田郷にある【小峰城】♪城めぐ歴史詳細が無い為記載致します♪
東は猪乗川内郷、西は上組郷、南は石木郷、北は波佐見町に接します♪川棚川が西境で大きく曲流し、広い水田地帯が広がります♪川棚と有田を結ぶ主要地方道のすぐそばで、小峰山の山頂に、小峰城は存在しました♪
川棚町のあるこの地は『和名抄』にみえる彼杵郡彼杵郷の地に比定されています。
遅くとも、文治2年(1186年)までに成立した彼杵荘の荘域となり(福田文書)鎌倉期以降、在地領主である河棚氏と河内氏が居住しています。永仁7年(1299年)鎮西探題裁許状に河棚三郎入道道盛、正和4年(1315年)同じく鎮西探題裁許状に河棚一方領主又六入道道性(東福寺文書)、正中2年(1325年)同じく鎮西探題裁許状に河棚源三郎入道道蓮の名前があります(橘中村文書)。鎌倉御家人であったと思われる六入道道性は、彼杵荘雑掌(※ 雑掌→荘園を管理する下級の荘官)と領家代惣検などを巡り相論していて、河棚一方領主だった事が知られます。
他にも河棚浦一分領主源五郎入道道永、河棚浦一分領主三位郎、河棚浦一分領主河棚七郎盛俊、河棚十郎次郎盛明などとも記載され、在地領主として、河棚氏の存在が挙げられます。
河内氏に関しては、正和4年(1315年)鎮西探題裁許状に、彼杵荘の河棚村一分領主河内弥五郎入道観盛とあり、河棚道性と同様、領家代一度惣検をめぐり雑掌と相論し、年貢済物を結解を遂げて究済する様に裁許されています。南北朝時代の彼杵荘内の国人・土豪らが彼杵一揆を組織しています♪川棚の住人もこれに加盟しています。
正平17年(1362年)彼杵荘一揆連判状断簡写には、河棚源三郎盛貞、同小三郎源永光、河内弥五郎源盛重、同孫七永泰、同源六源盛益、同中山九郎左衛門南永俊、同河棚中山女子代源次郎、河棚女子代四郎左衛門尉の名前があり、国人領主層として活躍しています。
さて♪戦国時代の川棚は、大村氏、松浦党、肥前後藤氏の境目となっています♪別名・猪ノ来城とも称する小峰城。天正年間(1573年〜1591年頃)武雄・塚崎城主である後藤貴明が、この大村領内に攻め入っています。小峰城(猪ノ来城)に陣を張り、領地拡大を目論みました。が、しかし!川棚の地侍や百姓達は砦(風南城)を構え、奇計をもって後藤方を破ったと云われ、以降後藤氏は二度と攻めてはこなかったと伝えます(川棚村郷土誌より)。
また長岡左近平純生墓碑誌によると、永禄6年(1563年)後藤之家士寺井近江守が在城中、大村純忠に攻められているとあります。
この頃には、小峰城は既にあったのでしょう。
自然石を使用しながら、粗々しく積み上げる石積みは、色々見て来たけどピカイチです♪
登城中にある石積みも、土留め等に使用した城郭遺構と見て、良さげに感じました♪
2016年05月07日 水瀬筑後守名雪
小峰城
小峰城の入口は、川棚町五反田郷の県道沿いにある、ダイハツ?の自動車整備工場の少し先にある。入口から山の方に登山道が延びているため、かなり急な勾配になると思われる。付近に駐車場はないため、城を攻める場合には、川棚駅から内海行きのバスに乗り、五反田のバス停で降りて徒歩で行くしかない。
2015年11月07日 比古清十郎
小峰城
五反田にあったとは!そういえばこの辺りは小峰姓もある。