平島館(ひらしまやかた)
平島館の基本情報
通称・別名
- 平島塁、阿波公方館
所在地
- 徳島県阿南市那賀川町古津
旧国名
- 阿波国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 足利義維
築城年
- 天文3年(1534)
主な改修者
- -
主な城主
- 足利氏
廃城年
- -
遺構
- 移築門、移築書院、土塁
指定文化財
- 市史跡(平島公方跡)
再建造物
- -
周辺の城
-
牛岐城(徳島県阿南市)[3.5km]
立江城(徳島県小松島市)[5.4km]
片志城(徳島県徳島市)[12.4km]
松鶴城(徳島県阿南市)[13.2km]
津田城(徳島県徳島市)[13.4km]
夷山城(徳島県徳島市)[15.5km]
徳島城(徳島県徳島市)[16.6km]
仁宇城(徳島県那賀郡)[17.5km]
鈴江城(徳島県徳島市)[18.1km]
蔵本城(徳島県徳島市)[19.1km]
平島館の解説文
[引用元:Wikipedia「平島館」の項目]
平島館(ひらしまやかた)は、阿波国平島庄古津村(現徳島県阿南市那賀川町古津字居)にあった日本の城(館)。別名は阿波公方館。
歴史
天文3年(1534年)に足利義維(義冬)が阿波守護・細川持隆に招かれ3000貫の所領を得て西光寺に入った。その後永禄年間に平島塁を修築して平島館に移った[1]。9代平島公方・足利義根が文化2年(1805年)に京都へ移るまでの270年間、歴代平島公方が居住した。
江戸時代に入り、蜂須賀家政が阿波国に入国すると、蜂須賀氏は平島公方を軽視し、3000貫の所領から100石にまで削減され(しかも名目上は茶料で「領地」としては認められていない)、4代義次を平島又八郎と名乗らせるなど、旧将軍家の権威を認めなかった。足利義根の阿波立ち退き後、その遺構のいくつかは、阿波各地に移築されるなどした。
館跡は、館付近の農民が農地などにしたが、地名だけはそのままにするなど大事に保ってきたので、その地の地名だけでもかつてをしのぶことが出来る。
現在は、主館のあたりが阿南市立阿波公方・民俗資料館となっている。またそれは、ふるさと創生事業で創設されたものである。
歴代の主な館主
- 足利義冬
- 足利義助
- 足利義種
- 平島義次
- 平島義景
- 平島義辰
- 平島義武
- 平島義宜
- 足利義根
主な移築先
他
- 古津八幡神社 - 当館の旧三社宮にあった、源義冬寄進灯籠と鳥居を移築。
- 吉祥寺 - 花垣門などを移築。
- 地蔵寺 - 玄関と書院を移築。
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平島館の口コミ情報
2024年08月11日 小太郎左衛門督南畿道19國守
平島館
水田の真ん中の小規模な古墳のイメージで、盛り土されている。直近に駐車場はなく、1キロ前後圏内で公的図書館や道の駅に駐車場がある。また直近には、阿波公方民俗資料館があるが、通常の駐車が可能か否かは、同資料館で確認する必要がある。8月10日訪問。
2022年09月21日 飛騨守とらさん
平島館
足利氏族、阿波公方累代の居館跡。この地から14代将軍義栄を輩出。台風一過で訪問。海を隔てているが、中央(京都)と地方(東四国)の政治的距離が近いなぁ、と感じた。
平島館の周辺スポット情報
行信寺山門(移築門)(遺構・復元物)
阿波公方民俗資料館(関連施設)