津久毛橋城(つくもばしじょう)
津久毛橋城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 宮城県栗原市金成津久毛字平形松迫
旧国名
- 陸前国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 北畠顕信
築城年
- 興国2年〔南朝〕/暦応4年〔北朝〕(1341)
主な改修者
- -
主な城主
- 北畠氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
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-
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津久毛橋城の解説文
[引用元:Wikipedia「津久毛橋城」の項目]
津久毛橋城(つくもはしじょう)または津久裳橋城[1]は、宮城県栗原市(陸奥国栗原郡)金成津久毛にあった南北朝時代の日本の城。1341年(北朝:暦応4年/南朝:興国2年)に南朝方の北畠顕信が築いた。
概要
中世までの津久毛橋は、陸奥国を南北に通じる街道が三迫川をわたる交通の要地であった。
津久毛橋城は、南北朝時代の暦応4年(北朝)/興国2年(南朝)9月(1341年)に南朝の北畠顕信が築き、南への進出のための拠点としたものである。
当城は、三迫川沿いの平地北端に位置する丘陵上にあり、『鬼柳文書』(『南北朝遺文-東北編-』所収638号)によると他の4ヵ所の城(館)と共に築かれたという。北朝からは石塔義房が迎撃に出て、翌年の康永元年(北朝)/興国3年(南朝)の戦い(1342年)で顕信を退けた。
参考文献
- 竹井英文「東北地方における中世城館関係史料集成-宮城県編-(http://id.nii.ac.jp/1204/00024411/)」(『東北学院大学論集 歴史と文化』63号、2021年) pp.19-100
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津久毛橋城の口コミ情報
2019年04月25日 ⛫武蔵の越前守の謙
津久毛橋城
二郭と一段上の本郭。伝承では源頼朝公が平泉の藤原泰衡攻略の為、二十万の大群で津久毛橋(湿地帯)に差し掛かり、藻を刈り敷き詰めて渡ったという。2018.12.1撮影。