沖野城(おきのじょう)
沖野城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 宮城県仙台市若林区沖野7他
旧国名
- 陸前国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 粟野氏
廃城年
- 天正18年(1590)?
遺構
- (発掘調査:土塁、横堀)
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
若林城(宮城県仙台市)[1.7km]
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沖野城の解説文
沖野城の口コミ情報
2022年12月09日 ひささん左馬頭
沖野城
住宅地の中でわからなかった。城跡近くの方にお話を聞いたが、「昔は土手などもあったが今はない。城跡(と言われる所)にはお家が建っている」とのことで。個人の敷地内のようで入るのは断念した。写真にあるような神社は見つけられず残念だった。
2011年09月03日 さくら主膳佑にゃ〜
沖野城
文治三年(1187)粟野大膳の築城とされるも確証なく、おそらく戦国時代に粟野氏が宮城、名取郡へ進出した頃の築城であろう。資料上の初見は、永正二年(1505)粟野国定が嫡子高国に北目城を譲り、当地の沖ノ館へ居住したとするものである。
粟野氏は後に伊達氏に臣従、沖野城は北目城と共に大崎氏に備える拠点の一となった。粟野重国、国治兄弟も有力家臣として活躍したが、天正十九年(1590)伊達政宗が岩出山城へ本拠を移した際の知行替えで磐井郡大原城へ所替えとなり当地を去った。
沖野城跡は市の東部にあり、JR仙台駅の南東約4.5㎞、陸上自衛隊霞目飛行場の南側に隣接している。広瀬川によって形成された自然堤防上に立地する。
標高は6m前後、遺跡の広がりは、東西約340m、南北約250mで、面積は約70,000㎡である。
1677年頃の文献『仙台領古城書上』には「沖野城 四方百間 粟野大膳出城ト云」とあり、遺跡の西方約3.8㎞ の茂ヶ崎城に居を構え、建武年間(1334~1336)から天正年間(1573~1592)にこの地を治めていた粟野氏の出城とされている。旧地名は「沖野字舘」である。
昭和60年(1985)と平成4年(1992)の宅地造成に伴う発掘調査で、並列する二重の堀跡が確認されているが、内部の実体は不明で年代決定資料も出土していない。
堀跡は上幅7~8m、深さ2m前後で、断面形は逆台形状である。方形にめぐると推定される区画堀であることから、城館の構造は方形区画の複合体と推測される。
遺跡北部には二重の土塁が部分的に残り、平地の城館跡としては比較的良好な保存状態であったが、近年著しく宅地化が進行している。
参考文献
・仙台市ウェブサイト「仙台市の遺跡」