観音寺城(かんのんじじょう)

観音寺城の基本情報

通称・別名

来次城

所在地

山形県酒田市麓楯ノ腰

旧国名

羽後国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

来次時秀

築城年

16世紀後期

主な改修者

主な城主

来次氏、寺尾伝右衛門

廃城年

天正18年(1590)

遺構

曲輪、土塁、空堀

指定文化財

市史跡(観音寺城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

城輪柵(山形県酒田市)[3.6km]
新田目城(山形県酒田市)[5.2km]
北目館(山形県飽海郡)[8.2km]
岩井出館(山形県酒田市)[8.8km]
砂越城(山形県酒田市)[9.8km]

観音寺城の解説文

本城は庄内平野北東部の出羽山地の西斜面にあり、庄内平野、日本海が一望できる所である。庄内藩としても最上郡、秋田県矢島に通じる交通の要として重要な城であった。

標高50メートルの所にあり、東西150メートル、南北350メートル、標高差20メートルである。

城の遺構は東から西向きの斜面にある。東側と北側は深い沢が林道で、西側と南側は登坂困難な急斜面で自然の要害である。

北の郭の東側と北側には土塁が作られている。北の郭と南の郭の間には深さ4メートルの空堀があり、橋が架けられていたという。

南の郭の北側には一部土塁があり西側と南側には曲輪がある。城は梯子型築城と言われている。

来次氏房が古楯に平城を築城したが、その子時秀は、平城では防備上不安のため、元亀元年(1570)をさかのぼることそう遠くない時期にこちらの楯山に城を移し、観音寺城を築城した。天正18年(1590)までの20年余りが存続期間である。天正18年城主・来次氏秀に代わって寺尾伝右衛門が入城したが9月に討死し、同年破城された。

情報提供:山形県教育委員会

観音寺城の口コミ情報

カーネル様[2016年01月17日]
羽越線南鳥海駅から、城めぐアプリが示す本丸に向かって東へ

観音寺城は、事前にネットで調べた範囲では明確な登山道はないようなので、高低差の少ない北側の林道を登る

本丸の真北のあたりの笹群生地から南に分け入ると、樹林帯に変わりさらに南下
10分ぐらいでアプリの説明書きにもある堀にでます。主郭、副郭を分断する堀に沿って階段状の曲輪が連続していて、土塁も確認できます

林道では膝まであった雪も、樹林帯ではそれほど積雪がなく、拍子抜けでした

城は手入れが行き届いている、というと言い過ぎですが、適度に間伐されていて、また標高差もあまりないので、多少の藪こぎを我慢すれば、どこからでも登れそうです

40分ほど散策してから、西麓にある天降神社に行き、城の案内看板を見ました
その後は、城輪柵と新田目城を経由して、本楯駅まで歩いて4時間半。靴と靴下がびしょ濡れで辛いです

夏なら酒田駅でレンタサイクル借りるのがいいと思います。あと、山から降りてきたら、(たしか)観音寺循環。と書かれたバスが走ってて唖然としました

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです

さくら主膳佑にゃ〜様[2012年03月03日]
半年近く前…(^-^;城代就任記念書き込み。
16世紀後半、出羽の名族清原氏の後裔、来次時秀によって築城された。当時武藤氏麾下にあった時秀は、父氏房の館(古館)では防御に難があるとし、城地を現在の東方山腹上に移した。
時秀の子氏秀の代には庄内を巡る武藤、最上、上杉氏の抗争が激化するが、天正十六年(1588)上杉景勝の部将本庄繁長によって武藤氏は尾浦城を失い、庄内は上杉領となった。氏秀は繁長を通じ上杉家臣となり観音寺城を預かるが、慶長五年(1600)上杉氏が庄内を失うと転封先の米沢へ移住した。

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