坪谷城(つぼやじょう)
坪谷城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 宮崎県日向市東郷町坪谷本村
旧国名
- 日向国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 米良氏
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 米良休助(伊東氏家臣)、松尾下総守
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
日知屋城(宮崎県日向市)[19.2km]
門川城(宮崎県東臼杵郡)[20.4km]
高城(宮崎県児湯郡)[22.1km]
穂北城(宮崎県西都市)[25.3km]
小川城(宮崎県児湯郡)[26.8km]
高鍋城(宮崎県児湯郡)[27.3km]
西階城(宮崎県延岡市)[28.4km]
井上城(宮崎県延岡市)[29.0km]
三納城(宮崎県西都市)[29.2km]
松尾城(宮崎県延岡市)[29.5km]
坪谷城の口コミ情報
2024年05月31日 順☆散歩征夷大将軍443+23
坪谷城
少し古いものですが教育委員会が作製した報告書(奈文研のサイトからDL可能)の48ページに縄張図付で紹介されているものの、たった4行しか記述がなく、縄張図も単純すぎて全く意味なし(見ればわかります)。埋蔵文化センターの報告書ってのもあるんですけど、こちらは主に「出土物」の報告書だし…城郭そのものの調査というのはひょっとしたらきちんと行われていないのかも?(自分が資料を見つけられてないだけかもしれませんが)ネットで紹介してる人も1人しかいないですし、かなり謎の城郭なんですよね。
まず、小学校裏の墓地の東端から登るとすぐに作業小屋?があった(今は潰れてます)平場があり、そこから上の方に虎口らしき構造が見られます。石積もありますが、教育委員会の報告書にも何も記載がないこと等から、これは後世のものである可能性が高いです。
虎口から登るとそこそこ広い郭、ここに小さな石碑があります。報告書ではここが主郭とされていますが、城めぐの城マークからは相当離れています。郭の奥の尾根上に堀切があり、それを越えるとさらに二重の大堀切が姿を現します。なかなかの深さで堀マニア大歓喜。ここまでは登城口から10分で来ることができます。
で、問題はここから。
主郭があるのは小学校の裏を南北に走る尾根の上。城マークはここから離れた北東の方向なのですが、とりあえずは尾根を北に進むしかありません。しばらく行くと堀切の可能性がある箇所も複数ありましたが、おそらく違うかな。で、そんな堀切状地形(後世に道を作るために切り通した?)より北は急斜面かつ藪で進みにくかったこと、また方向も違うことから自分はいったん東の谷に降り、隣の尾根に直登。そしてさらにその向こうの谷に降り、また尾根を直登します。つまり、最初の尾根の「隣の隣」の尾根に来たことになります。この尾根を北に進むと、今度は東西に走る尾根に出ました(最初の尾根を北上してもこの尾根に出られるはず) 。獣害防止?のためか、ずっと尾根沿いにネットがはられています。ここを東に少し進むと城マークの位置に到達できました。
ですが、ここは狭すぎるし(そんな城もありますけど)、周囲に堀切などの遺構もないし、削平も(ほぼ)されてないし、詰めの城としても不自然です。なのでここに城マークがあるのはどうなんだろう…
それよりも、そこから尾根をずーっと西に進むと郭かもしれない広い平場がありましたので、ひょっとしたらここが詰めの城なんじゃないかなと勝手に想像していました。
さらに…ここからまた来た道を戻る(谷を2つ越える)のは嫌なので、来た時とは違う尾根を適当に南下してみることにしたんですけど、これが大正解。結果的には最初の尾根のすぐ東隣の尾根を南下していたのですが、ここで堀切を3箇所発見しました。1番南の堀切周辺には郭群もありました。出城かもしれませんが、報告書にすら記載がない遺構なのでこれ以上はわかりません。なお、ここはちょうどお寺の北東あたりで、この尾根を更に下ると私有地(廃屋)に出てしまうので注意してください。
自分が調査できたのはここまでですが、もっと広範囲に調べればまだまだ遺構があるかもしれません。どなたかの続報をお待ちしています。
①虎口
②主郭
③主郭奥の堀切
④さらに奥の堀切
⑤詰めの城かもしれない平場
⑥別尾根の堀切
⑦別尾根の堀切と切岸
⑧郭群