矢野城(やのじょう)
矢野城の基本情報
通称・別名
- 保木城、発喜城、野間城
所在地
- 広島県広島市安芸区矢野町
旧国名
- 安芸国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 熊谷蓮覚
築城年
- 建武2年(1335)
主な改修者
- -
主な城主
- 熊谷蓮覚、野間氏
廃城年
- 弘治元年(1555)
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(矢野城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
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矢野城の解説文
[引用元:Wikipedia「矢野城」の項目]矢野城(やのじょう)は、広島県広島市安芸区矢野町にある、南北朝時代から戦国時代の山城。
【概要】
安芸熊谷氏の一族である熊谷蓮覚によって広島湾東岸にそびえる絵下山山頂から北へ延びる丘陵尾根上に、1335年に築城された山城である。城の北側が大手口で、矢野川により形成された谷となっている。南側は絵下山を後方の守りとして、西側には明神山の尾根に続く茶臼山があり、搦手として機能している。元々この地域は後醍醐天皇との関係が深い荘園地域で、山陽道にも近く、広島湾の船の動きを監視できる要地であったためと考えられる。
【歴史】
1335年11月に安芸守護の武田信武らが足利尊氏に呼応し、反後醍醐天皇の兵を挙げた。毛利氏や吉川氏、熊谷氏ら安芸国の有力豪族らはそれに従い東上の軍を起こした。しかし足利尊氏側であった熊谷氏の分家筋の一族の熊谷蓮覚は圧倒的不利な情勢にも関わらず後醍醐天皇側に立ち、自身の築いた矢野城に籠もり、矢野城にて足利尊氏側と後醍醐天皇側の攻防戦が発生する。同年12月に4日間の攻防戦を経て大手口を突破され、熊谷蓮覚をはじめとする熊谷氏の傍流一族らは討死し、矢野城は落城した。
熊谷蓮覚の死後、矢野城の詳細については不明である。しかし約100年後の1445年に室町将軍足利義政より所領を与えられて尾張国野間荘より野間重能が矢野城に入る。その後大内氏の支配下に入り、近隣の平賀氏や小早川氏と争いを繰り返し勢力を拡大する。1555年に当主の野間隆実は陶側につくが、毛利元就の調略によって降伏する。しかし降伏したのにも関わらず野間氏の一族は虐殺され、その歴史を閉じている。矢野城も同時に廃城になったと推測される。
【現在】
1937年5月28日に広島県指定史跡に指定された。郭の跡も多数見受けられているが、一部は電波塔の用地となっている。[続きを見る]
矢野城の口コミ情報
2018年02月17日 桃色乙事主
矢野城
矢野城への道は枯れ葉の絨毯なれど足首まで埋る程の深さあり。
また、急峻なうえ落葉に足を取られ滑る滑る。
遺構も定かでなく、それなりの準備と心構えが必要と思われます。
2017年08月29日 カーネル
矢野城
呉線矢野駅から
駅の南口から駅前通りを東に進み、極楽橋交差点を右折して、矢野東郵便局を目指す
大通りと並走するので、車が通らず快適に歩けます。郵便局を通過して南下し続けると、県道34号に合流手前に、矢野城主供養記念碑がありました
天神交差点・天神バス停を過ぎ1分ほどで右に小さく『桧下山コース 矢野天神登山口』の茶色の看板で右折。ここまで30分
急坂を登ると小さな逆三角形の案内があるのでこれに従い、その先の赤い陸橋を渡ると山道になる
標識が充実して道も明瞭なので、迷うことはありません。20分で矢野城の標識着。その先に進むと土橋と堀がありました
帰りは矢野城の標識から少し南にある分岐から、矢野ニュータウンに下りました。こちらも標識多数で迷いません
駅から登山口までの距離は、どちらも同じくらいでした
駅から往復して2時間くらいでした