久慈城(くじじょう)
久慈城の基本情報
通称・別名
- 新町館、八日館
所在地
- 岩手県久慈市大川目町
旧国名
- 陸中国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 久慈氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 久慈氏
廃城年
- 天正20年(1592)
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(久慈城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
大野館(岩手県九戸郡)[11.8km]
種市城(岩手県九戸郡)[23.2km]
熊野館(岩手県九戸郡)[24.9km]
軽米城(岩手県九戸郡)[25.8km]
普代城(岩手県下閉伊郡)[26.0km]
葛巻城(岩手県岩手郡)[29.0km]
島守館(青森県八戸市)[31.6km]
姉帯城(岩手県二戸郡)[33.0km]
一戸城(岩手県二戸郡)[34.4km]
九戸城(岩手県二戸市)[35.5km]
久慈城の解説文
[引用元:Wikipedia「久慈城」の項目]
久慈城(くじじょう)は、岩手県久慈市にあった日本の城。別称、新町館・八日館。岩手県指定史跡[1]。
概要
久慈城は戦国時代の平山城で、九戸郡大川目村(現・久慈市大川目町字新町)に所在した。城跡は久慈川の左岸、新町集落の北方、大川目慈光院の東側の男山を利用して独立丘陵上に位置し[2]、北側後背地に空濠がめぐらされ、南側は主郭部で南北に長い平場をなして、丘陵頂部より平坦地が3段に作り出されていた。ふもとに位置する堀屋敷と称される平場が日常の居城と思われる。現在は、本丸跡・堀が残っている。
城跡は、1973年(昭和48年)10月8日に久慈市指定史跡に指定されたのち、2022年(令和4年)4月8日に岩手県指定史跡に指定されている。
歴史
久慈氏の居城で、久慈修理助治政の養子、12代と伝えられる備前守信実の頃からが大川目八日館に居住した[3]のが始まりと伝わるが、築城時期は不明だが、信実が当地に入ったのは文明年間(1469 - 87年)のころである。と、いわれている。(「摂待久慈家譜」)
天正19年(1591年)9月、久慈氏宗家である、久慈備前守直治は九戸信仲の三男中務政則を娘婿としたため、九戸政実の乱において九戸政実に荷担し、九戸城に籠城したが降伏し開城に伴い、主だった首謀者達とともに栗原郡三迫岩ヶ崎(現 宮城県栗原市)に送られ処刑され、久慈氏の嫡流が滅亡した。
没後、久慈城は南部信直の直轄下におかれることとなり、代官は久慈修理治興であった。
天正20年(1592年)、「諸城破却書上」には「糠部郡之内 久慈 山城 破 信直抱 代官 久慈修理」とあり、破却された。
参考文献
- 【書籍】「日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田」
- 【書籍】「角川日本地名大辞典 3 岩手県」
- 【書籍】「日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名」
- 【書籍】「角川日本姓氏歴史人物大辞典 第3巻 「岩手県姓氏歴史人物大辞典」」
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久慈城の口コミ情報
2024年04月13日 装鉄城大膳大夫乱怒
久慈城
久慈駅出て左の久慈市情報交流センター YOMUNOSUに500円の電動レンタサイクルあり。これで久慈川沿いに川上へ向かい25分ほどで到着。10分くらいで主郭到着します。曲輪に堀切、竪堀、案内板と充実しており、三陸地域では随一の城跡でした、
2021年09月25日 ぞのっち大宰大弐
久慈城
来訪者がお城巡りをしやすいように、あちこちに案内板が設置されています。また、お城のパンフも登城口入口に備えられています。のぼり旗で、大浦氏は久慈城出身ということがPRされてますよ。
2019年08月15日 隼人佑ひーろ
山口伝承館[久慈城 駐車場]
地元の公民館的な施設の駐車場を開放しています。当然、無料!
2019年05月20日 ミッツ
慈光寺の駐車場[久慈城 駐車場]
慈光寺の駐車場ですが、駐車可です。
2010年08月20日 足軽越中守一歩
久慈城
城巡りの中で
日本一、行かない城趾!!
という事なので書き込みします。
最初に見える、看板、標柱、登り口はここです。このまま進んでも、山道を通り抜けるだけです。登り口は他にもあります。すぐ上に祠があり、斜面を削ったと思われるような跡はありました。夕方で時間もなく道の草も伸びて歩きづらかったので途中で引き返しました。本丸までは行ってないので、どのようになってるかはわかりません。