加地城(かじじょう)

加地城の基本情報

通称・別名

加治城

所在地

新潟県新発田市東宮内字大ヒラ他

旧国名

越後国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

佐々木盛綱

築城年

鎌倉時代前期

主な改修者

主な城主

加地氏

廃城年

天正15年(1587)

遺構

曲輪、土塁、堀切、土橋

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

五十公野城(新潟県新発田市)[4.6km]
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加地城の解説文



加地城(かじじょう)は、新潟県新発田市東宮内にあった日本の城。

歴史 

鎌倉時代初期に越後国蒲原郡加地荘の地頭に任じられた佐々木盛綱が築いたという。以降代々盛綱の子孫の加地氏の居城となった。

戦国時代には加地氏は上杉謙信に仕えていた。当主の加地春綱は、妻が長尾為景の娘で、謙信麾下の武将として活躍した。謙信の急死により勃発した御館の乱では、春綱の子加地秀綱は上杉景虎に与し、上杉景勝方の五十公野治長(後の新発田重家)、五十公野信宗に奇襲攻撃され一旦は降伏した。

しかし天正9年(1581年)、新発田重家の乱が起こると、秀綱はこれに加担してまたしても景勝に対抗した。景勝は新発田城攻撃に先立ち、天正15年(1587年)9月7日に加地城を攻め落城した。

加地城の口コミ情報

2024年10月01日 池田紀伊守信輝
藤戸神社[加地城  寺社・史跡]

新潟県新発田市東宮内藤戸山に鎮座している神社です。藤戸神社の創建は文治5年(1189)、当時の領主、加治荘の地頭職に就任した佐々木盛綱が佐々木家の祖神(宇多天皇)の御霊を勧請したのが始まりとされます。

一方、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載されている美久理神社の論社でもあり、こちらが正しければ創建年は更に遡る事になり、古くから何らかの信仰があったと思われます。

2021年05月10日 国府左京大夫城介
加地城



加地城のリア攻めについて

【遺構】
この地方の山城では、要害の高低により、「奥要害」「前要害」と称することが多く、この加地城もこれに該当する構造となっています。土橋と大堀切から西側が前要害、東側が奥要害となります。この城の構造としては、尾根沿いの侵攻を防ぐため、複数の堀切を入れる典型的な山城となっています。

・前要害は二の丸を中心に段曲輪となっており、斜面に竪堀があります。また、藤戸神社との間には、一部登山道を造るために改変されていますが、二重堀切も存在しています。
・前要害と奥要害の間にある土橋と空堀は、幅12mとこの城で最大規模を誇り、一番の見所かと思います。
・奥要害は本丸を中心に北尾根沿いに展開している。本丸の南東部には櫓台が残っている。本丸の北側の尾根には、尾根を断ち切るように堀切が複数存在している。この奥要害を先に進むと、加地城の支城ともいえる麓城、滝城があります。

【登城方法】
公共交通機関でリア攻めするのであれば、加治駅から徒歩で約40分または新発田駅からコミュニティバスを利用する方法がありますが、新発田駅北口にある新発田市観光協会でレンタサイクルを借りるのが最適解だと思います。自転車であれば、新発田駅から約30分ほどで登城口である藤戸神社に着きます。
藤戸神社の手前に2、3台程車を停めるスペースがあります。
登城口は二手に分かれており、参道か林道を使うのかは好みになりますが、最終的には藤戸神社の境内で合流しますので、あまり気にする必要はありません。そこから、「学びの道」という自然観察道を使って、登城していきます。所々、テープなどでルートが示されているので、本丸までは迷うことはないかと思います。

【登城時の注意等】
本丸までは比較的緩やかですが、本丸の北側尾根沿いに行く場合は、郭ごとの段差が激しく、ロープを使って上り下りする箇所があります。なので、本丸より北側に行く場合は、必ずグローブを持って行ってください。全体的に藪が多く、5月初頭の時点で所々道が分かりにくい場所もあり、夏場になれば道が分からなくなるほど生い茂ると推測されます。また、自分が登城した時(5月初頭)は、本丸付近ではかなりの数の蜂が飛び交っていたので注意してください。

【写真】
1:登城口
2:藤戸神社
3:本丸にある説明版

2021年05月10日 国府左京大夫城介
蔵光館[加地城  周辺城郭]



揚北衆佐々木党・加地氏の居館

【歴史】
築城年代は不明だが、加地資秀の頃に越後に土着したことから、鎌倉後期から室町初期の頃か。
加地秀綱が新発田重家の乱に加担し、敗北した頃に廃城になったと思われる。

【遺構】
加地城の南東2.1kmに位置し、現在は香傳寺となっている。典型的な中世の方形居館で、100m四方の土塁に囲まれている。土塁は一部湮滅しているが、南側を中心に良く残っている。また、南側に枡形状の土塁もあるが、高さがあまりなく後世のものか。南門側に池に囲まれた社があるが、この池がかつての堀の跡か。
香傳寺は加地氏の菩提寺で加地春綱、景綱の位牌が安置されている。

【感想】
地方領主の方形居館であり、その領主が没落した後に、お寺が建立される形で遺構の一部が残っている。平時はここで政を行い、戦時になると詰城の加地城に立て籠もるという運用がされている。そのため、この館の土塁は、あまり高くなく防御力はないに等しい。

【アクセス】
新発田駅から自転車で約40分。

【写真】
1:香傳寺看板
2:南側の土塁
3:加治(地)氏菩提寺の石柱
4:香傳寺境内
5:堀跡?
6:南門の枡形状の土塁
7:加治氏館跡の標柱(香傳寺からやや南に離れた所にあります)

加地城の周辺スポット情報

 蔵光館(周辺城郭)

 宝積寺館(周辺城郭)

 岡塚館(周辺城郭)

 大天城(周辺城郭)

 藤戸神社(寺社・史跡)

 藤戸神社駐車場(御城印)

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