五十公野城(いじみのじょう)
五十公野城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 新潟県新発田市五十公野字熊ノ沢
旧国名
- 越後国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 五十公野氏
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 五十公野氏
廃城年
- 天正15年(1587)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
新発田城(新潟県新発田市)[4.0km]
加地城(新潟県新発田市)[4.6km]
赤谷城(新潟県新発田市)[11.1km]
城山館(新潟県新潟市)[11.2km]
長場館(新潟県新潟市)[13.3km]
奥山荘城館(新潟県胎内市)[15.0km]
安田城(新潟県阿賀野市)[19.9km]
沢海城(新潟県新潟市)[20.7km]
平林城(新潟県村上市)[25.6km]
新津城(新潟県新潟市)[25.6km]
五十公野城の解説文
[引用元:Wikipedia「五十公野城」の項目]
五十公野城(いじみのじょう)は、新潟県新発田市五十公野(越後国蒲原郡)にあった日本の城。
概要
築城時期は不明。五十公野氏により築かれたと言われている。五十公野氏は新発田氏の一族で、戦国時代には後の新発田重家が五十公野治長と称して家を継いでいたが、天正8年(1580年)、兄・新発田長敦の死により新発田氏に戻って家を継いだ。そのため、新発田重家の妹婿・長沢道如斎が、五十公野信宗と改名して代わりに五十公野氏を継いだ。
翌天正9年(1581年)、義兄の重家が上杉景勝に反旗を翻すとこれに従う。天正15年(1587年)、藤田信吉率いる景勝勢に城を囲まれ、籠城中に家老の河瀬次太夫や近習の渋谷氏などが信吉に調略されて寝返るなどしたため、10月13日に落城し信宗も討ち死にした。現在は堀切などが残る。
現在の新発田市の東中学校裏が五十公野城跡である。
[続きを見る]
五十公野城の口コミ情報
2023年11月06日 noble讃岐守弥勒菩薩
五十公野城
堀切は写真だと分かりづらいですね。主曲輪には年代物と見受けられる、大きく立派な城跡の石碑が鎮座してます。過去の情報だと、草茫々で石碑まで辿り着くのも困難だったようですが、ところがどっこい、草刈りは行われたようで、余裕で登れました。
2022年06月02日 ファン掃部助トム治郎
五十公野城
新発田駅から徒歩70分くらいかな。旧国鉄の線路が遊歩道になっているので気持ちよい散策でした。城跡は小学校の裏山です。
2018年09月19日 左衛門督五右衛門
五十公野城
毎年、落城日である10月23日に五十公野城趾落城慰霊祭が行われています。
その時に城趾より狼煙が上がります。また五十公野城に関する詳細な資料を配っておりそれを頂ける機会でもあります。是非ご参加下さい。