五十公野城(いじみのじょう)
五十公野城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 新潟県新発田市五十公野字熊ノ沢
旧国名
- 越後国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 五十公野氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 五十公野氏
廃城年
- 天正15年(1587)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
新発田城(新潟県新発田市)[4.0km]
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五十公野城の解説文
[引用元:Wikipedia「五十公野城」の項目]五十公野城(いじみのじょう)は、現在の新潟県新発田市五十公野(越後国蒲原郡)にある城郭。
【概要】
築城時期は不明。五十公野氏により築かれたと言われている。五十公野氏は、新発田氏の一族で、戦国時代には後の新発田重家が五十公野治長と称して家を継いでいたが、天正8年(1580年)、兄・新発田長敦の死により新発田氏に戻って家を継いだ。そのため、新発田重家の妹婿・長沢道如斎が、五十公野信宗と改名して代わりに五十公野氏を継いだ。
翌天正9年(1581年)、義兄の重家が上杉景勝に反旗を翻すとこれに従う。天正15年(1587年)、藤田信吉率いる景勝勢に城を囲まれ、籠城中に家老の河瀬次太夫や近習の渋谷氏などが信吉に調略されて寝返るなどしたため、10月13日に落城し信宗も討ち死にした。現在は堀切などが残る。
新発田市の東中学校裏が現在のわかりやすい所在地。[続きを見る]
五十公野城の口コミ情報
出羽守五右衛門様[2018年09月19日]
毎年、落城日である10月23日に五十公野城趾落城慰霊祭が行われています。
その時に城趾より狼煙が上がります。また五十公野城に関する詳細な資料を配っておりそれを頂ける機会でもあります。是非ご参加下さい。