シャリ陣屋(しゃりじんや)
シャリ陣屋の基本情報
通称・別名
- 津軽藩シャリ陣屋
所在地
- 北海道斜里郡斜里町52番地24
旧国名
- 蝦夷国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 津軽藩
築城年
- 文化4年(1807)
主な改修者
- -
主な城主
- 津軽藩
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- 町史跡(津軽藩士シャリ陣屋跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
桂ヶ岡砦(北海道網走市)[34.0km]
カリカリウスチャシ(北海道標津郡)[43.4km]
サシルイ岬チャシ(北海道目梨郡)[49.0km]
西春別1チャシ(北海道野付郡)[56.7km]
ユクエピラチャシ(北海道足寄郡)[90.4km]
神岩チャシ(北海道厚岸郡)[95.5km]
釧路川流域チャシ(北海道釧路市)[106.0km]
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オタフンベチャシ(北海道十勝郡)[138.5km]
シャリ陣屋の解説文
シャリ陣屋の口コミ情報
2022年02月17日 RED副将軍
シャリ陣屋
ロシアからの沿岸警備の陣屋
一冬で大半の藩士が犠牲となった津軽藩士殉難の地
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
1804年にロシア使節レザノフが長崎来航すると、以降ロシアは蝦夷地を侵害。
1807年に、幕府から斜里地方の沿岸防衛を命じられた津軽藩が陣屋を設置。
ロシア船からの防衛のため、約100名の津軽藩士が詰めました。
しかし、急造のバラック建てでは厳しい寒さと食糧不足を防げず、一冬で72人の犠牲者を出し、翌年帰国できたのはわずか17人でした。
翌年の1808年に藩士たちは帰国し、陣屋は自然消滅しました。
見所
標柱、案内板があるのみで遺構は残らず。
かつては長屋3棟・倉庫・剣術稽古所・弁天堂・遠見番所で構成された陣屋がありました。
2021年02月22日 綱島出雲守八雲
シャリ陣屋
説明表示板によると江戸幕府より沿岸警備を仰せつかった津軽藩は藩士100名を派遣。宿舎等設営するも過酷極まる気候風土と浮腫病の蔓延で翌年生きて帰還できたのは僅か17名であったと記載してある。死没者の過去帳が当時の悲惨さを語っていると伝えている。説明表示板は知床斜里駅から車で4分程度の攻略マップ通りの位置にあり。駐車場はなし(人通りもなし)。トイレなし(遺構らしき跡形もなし)。
2017年05月08日 石狩守らびっと
シャリ陣屋
碑と説明板があります。
電車で行く際は知床斜里駅で降りると良いと思われます。
近くの公園には藩士の方々の慰霊碑があるようです。
この陣屋には約100名の津軽藩士が詰めたが、ロシア船からの防衛を最優先に海を望む場所に設置されたことや、急拵えのため生木で作られており、隙間風がひどかったことなどから、初めての越冬において東北・津軽出身の藩士らでも耐えられないような寒さに苛まれ、新鮮な食材がないことによるビタミン不足もあって多くの藩士が死亡した。
陣屋跡には遺構は残されておらず、生存した藩士が記した『松前詰合日記』を元に推定した場所が史跡となっている。