勘次ヶ城(かんじがしろ)
勘次ヶ城の基本情報
通称・別名
- 勘次が城、勘次ケ城、山崎石塁、山崎の石塁、倭寇城
所在地
- 長崎県五島市富江町岳山崎
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 防塁
天守構造
- なし
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 不明
廃城年
- -
遺構
- 石塁
指定文化財
- 県史跡(山崎の石塁)
再建造物
- -
周辺の城
-
福江城(長崎県五島市)[12.7km]
魚目城(長崎県南松浦郡)[52.9km]
志々伎館(長崎県平戸市)[89.0km]
神浦城(長崎県長崎市)[89.6km]
鳥越城(長崎県西海市)[90.9km]
高浜城(長崎県長崎市)[93.5km]
俵石城(長崎県長崎市)[97.8km]
福田城(長崎県長崎市)[98.1km]
長崎台場(長崎県長崎市)[100.5km]
針尾城(長崎県佐世保市)[103.9km]
勘次ヶ城の解説文
勘次ヶ城の口コミ情報
2024年09月23日 陸奥守たろす
舟手の石倉(非常倉)[勘次ヶ城 遺構・復元物]
【舟手の石倉(非常倉)】
【所在地】
◆長崎県五島市富江町
【概要】
◆富江六代藩主運龍は町方、職人町、狩立に非常倉を設けて救貧に備えた。
その内の一つ町方に建てられたものである。
天保年代に建てられ町乙名古本藤兵衛、古本平四郎、町年寄の計らいで町積立金若干に乙名二名の寄付金若干両を加え、これを資金として粟五〇〇俵を購入し、町家の困難を申し出た者に春秋(正月、盆)二期にこれを貸し付、一俵につき粟五升の利息を付けて返済させた。
この石倉は、平成九年十二月に舟手町(恵比寿神社前)から移築した。
〈五島市教育委員会〉
◆と、現地の案内板に記されておりましたが…。
救貧に備えたんなら、領主たる者、蔵を開放して民に施すんちゃうんかい?と思った次第ですw
あと、お米じゃなく粟なんですね…
米と粟を同じように数えて良いのかは知りませんが、米の場合は1俵のたわらに入る米の量は4斗。1斗=10升なので、1俵=4斗=40升。
1俵につき5升の利息て…利息12.5%
利息制限法という法律では、10万円未満なら年利20%、100万円未満なら年利18%、100万円以上なら年利15%が利息の上限として定められているそうです。
年利ならば妥当なんすかねwww
【総評】
◆話それましたが、遺構としての感想は、富江陣屋石蔵と比べると規模感や石積みで見劣りするものの、「野面積みが好きです」って方には良いですし、離島に足を運んだんで歴史を+α楽しみたいって方は、勘次ヶ城の近くですのでついでに少し寄り道してはいかがでしょう。
【アクセス】
◆Googleマップでは「富江の石倉・非常蔵」と登録されてますので、富江の石倉で設定してくださいませ。
真横に若干のスペースがあります。
【オマケ】
◆石倉の眼前に朽ち果てた倉跡のような物でがありまして、勘次ヶ城の近くの集落内でも目にした物で、こっちの方が興味湧きましたが、調べきれませんでした…
2024年07月15日 武景式部大輔
勘次ヶ城
特にこれは!というものは見られなかったですが、とにかく景色が素晴らしい!!らしいです。生憎の大雨で残念でした。またの機会を楽しみにして帰途につきました。
2024年07月05日 へこ
勘次ヶ城
道は狭い一本道で対向車がきたら離合できません。どちらかがかなりバックする必要があるので運転に不慣れな人は諦めるか、よくよくリスク考えて行きましょう。
2024年05月01日 Micky大蔵卿
勘次ヶ城
道沿いの案内板にそって細い道を奥まで行くと、駐車場があるので、車で行けます。
2022年03月08日 明石家船上
富江陣屋[勘次ヶ城 周辺城郭]
切込接で作られた倉庫、切片を隙間なく嵌め込んでいます。石工技術の最終形です。
2021年04月10日 堀切凡夫
富江陣屋[勘次ヶ城 周辺城郭]
富江藩の陣屋が存在していた頃の貯蔵庫跡です。いまも良好に石垣が残ってます。高窓が印象的です。
2020年12月07日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
勘次ヶ城
五島空港からレンタカーで30分程で着きます。
標識がしっかりしているのでナビがなくても、猿でもあたしでも迷うことなく行き着けます。駐車場は1番奥の突き当たりにありますが、あと450mの標識から先は道が狭くて離合できません。運転下手くそな人はこの標識の前に止めて歩いていくか、運が悪けば道半ばでタイマン張ってください。
お天気が良ければ夕陽時刻に合わせて大瀬崎灯台展望台もオススメします。『この先カーブが連続です。この先カーブが連続です。』のBGMを聴きながら、ブイブイ山道行っちゃってください。その先には絶景が待っています。2人なら尚…1人でもそれなりに感動します。はい、1人でしたが何か?
2019年01月05日 織田上総介晃司
勘次ヶ城
福江港から富江までバスで行き、徒歩で勘次ヶ城目指しましたが約4.5kmあり、帰りのバスの時間を考え、走ってヘトヘト…(帰りは地元の方のご厚意でバス停まで車で送ってもらいました。どうもありがとうございました)
教訓:勘次ヶ城のリア攻めはレンタカーかタクシーを利用すべし
2015年12月15日 これも教育?征夷大将軍クララ姫
勘次ヶ城
鬼岳温泉入浴中に地元男性から勘次ヶ城の話を聞くと「あれは城なんてもんじゃない、倭寇(海賊)の強奪品保管庫だ!」と叱られてしまいました(。-_-。)
2012年01月15日 June02
勘次ヶ城
鬼岳が見える風光明媚な海辺のサイクリングロード脇(可)に、室町〜戦国時代の海賊『倭冦』が拠点として、火山礫で長方形状に築いた石塁です。
幕政時代には、松浦藩の密貿易拠点でもあったと云われてます。
周囲には、石塁の1/10ミニチュア、倭冦像及び三種の説明板が色を添えてます。
石塁の写真をアップします。
岸近くの海上灯台は、『八幡瀬』と呼ばれる暗礁であり、当時、座礁船の強奪を行う一方、天然防御でもあったのでは?と推測しています。
勘次ガ城の名称は、伝説からの呼称です。(有)
石塁はほぼ長方形の構造をしており、入口は一箇所で東北15間(約27m)、東南22間(約40m)、壁の高さ約3.6mの構造物が現在も残されている。
この勘次ヶ城を築いた石はすべて古来日本の築城に用いられた大石ではなく、一人の力で処理しうる石を用いてあり、かの石塁の名勝の謂われである大工の勘次が、カッパと共に1人で造ったというのはここに由来するのであろう。
これら石塁の城壁はその他の城壁の東端から海岸まで幅一の石垣を築いてあり、かつ平行に造ってあることから、往事は海岸に至りて様々な用を便した所であると推測され、東シナ海を暴れまわった倭寇の築城であるという説が有力である。