清正があと5年生きていれば…(2016/12/05)
清正公像(熊本県熊本市)
大坂の陣の約3年前、突如として病死した加藤清正。豊臣恩顧大名の中でもひときわ忠誠心が高かった清正があと5年生きていたら歴史はどう変わったか?
[投票実施期間]2016年12月05日~2016年12月24日
1.大坂の陣では西国大名を糾合して大坂城へ駆けつけ、幕府軍を大いに撃退した。 |
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2.大坂の陣で幕府軍を苦しめ、史実よりも遙かに有利な条件で和睦を成立させた。 |
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3.家康もうかつに大坂攻めを実行できず寿命を迎え、豊臣家による主権を取り戻した。 |
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4.多くの恩顧大名が幕府方に付く中、清正1人の力では歴史は変えられなかった。 |
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5.自らの家臣や領民の行く末に配慮し、結局は幕府方として大坂攻めに参戦した。 |
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6.その他 |
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「ニッポン城めぐり」利用者のコメント
ミームン中務卿(3を選択)
後見人清正存命中には家康も無理な大阪攻めわ出来ず。豊臣家は減封されても存続し、家康無き後、不平浪人衆と豊臣親派が集結して東西を割った第二の関ヶ原となり、情勢は混沌となる。
にゃにゃーにょ豊後守(4を選択)
戦上手で領国統治の手腕もあるけれど、残念ながら政治のセンスが欠けてるからねぇ
野呂利左衛門督休三(6を選択)
秀頼と家康の会見の時には娘と頼宣の婚約が成立していたというし、天下普請に愚痴をこぼす正則にあのように言い放つのだから幕府に着くだろう。ただ幕府の方では正則と同様に留守居にして最前線には出さないのでは。
雪之丞(6を選択)
大坂の陣自体がなくなり豊臣家の存続は可能だったかもしれない。豊臣家の主権の回復は難しいと思いますが。
紫(6を選択)
淀君、秀頼親子をきちんと説得して大坂城から他国へ移封させて一大名として江戸時代をすごし今でも豊臣家を残した。
次郎氏綱(6を選択)
熊本に秀頼公を迎えた。
M g (5を選択)
時の流れって感じですね
〒八甲田大宰少弐郵巡〒(2を選択)
清正の性格からすれば5かな…と思うのですが、それでは今ほどの人気が残ったか…!?
あえて2を選びます。もしかしたら、九州で豊臣家が存続するとか、妄想して…
銀英5ロイエンタール左近衛少将(2を選択)
歴戦の清正なら淀や女性を軍議に参加させずに、軍略を練るかと、あとは後方支援が石田亡き大野がどこまで処理しきれるか、かなぁ
マダオ(6を選択)
熊本城で徳川と最終決戦となった。
GINTOKI(5を選択)
時代の流れには清正公と言えども逆らえず!
金沢流北条掃部助源二郎(6を選択)
真田と同じく正則は豊臣方へ、息子達(忠勝、正利)は幕府側についていたかも?
戦になったら真田より福島の意見が優先されただろう?
結果豊臣に良い条件で終わった可能性があると思う。
小早川隆景(6を選択)
清正が生きている間は大阪の陣は発生しなかったかもしれないが、遅かれ早かれ豊臣の滅亡は免れなかったと思う。
自称武蔵守 本当は木工允(1を選択)
清正がいれば士気も高くなっただろうし、他の豊臣恩顧の大名(上杉、佐竹、立花、島津、毛利など数え切れない外様大名)も豊臣に着いていた可能性48.69%
ナカジー(4を選択)
清正よりも、秀長が長生きしたほうが、影響が大きかったのでは?
ドラガン尾張守店長(4を選択)
色んな折り合いから、私が清正ならば不戦を貫いたかもしれない。
龍馬備中守【】(2を選択)
戦国にはロマンがある☆
(5を選択)
時勢を見る目はあると思います(`・ω・´)ノ
あきつら(3を選択)
武断派の半分位は豊臣方に付くはずだから家康も豊臣と面と向かって敵対できないはず
鬼義重常陸介いわちん(4を選択)
清正1人、もしくは清正についてくる武将もいたかも知れないが、結局は多勢に押されて・・・
しんぺー(6を選択)
家督は息子の忠広に継がせて、加藤家は徳川軍として参戦したかな…と。
家は存続させ、清正自身は総大将として大坂入り。これが当時取り得る最善策か…
右兵衛尉 雑賀党 葛葉頼廉(4を選択)
熊本城で籠城すればもしかしたら…
いのはな屋兵庫允09b(6を選択)
魅力的な方ではあるが、時代に影響を与える程の力と考えると疑問。どちらにも付きそうだし、結果としてあるとすれば秀頼存命の可能性位でしょうか。
悪戯相模守ラスカル(6を選択)
中立
もっちん上総介(6を選択)
多分2番だと思います。
ただ、何かに付け因縁を付けるなり、暗殺を謀るなり、加藤清正の無力化は、成されたと思う。
左衛門佐ヒロ(1を選択)
撃退に成功して東と西に政権が誕生し、どこかの時点で最終決戦が行われるのでは?
ふくろう(1を選択)
そうありたいです。
島津大隅守龍伯(5を選択)
いやいや清正の豊臣家の忠義は家康秀頼会見の次点でもうなかったといわれ、たしか義直か頼宣を守っていたと言われるので5年長生きしても幕府軍についていたと思われます。
(5を選択)
秀頼ちゃんは生き残れていたと思う
石井源四郎(5を選択)
史実の福島正則と変わらない。
だいすけ(5を選択)
清正公は時勢をみることに長けた人物だと思うので幕府側で参戦したんじゃないかなあ
烏龍玄蕃頭(5を選択)
関ヶ原でも大人しくしていたぐらいだから豊臣についたとは考えづらい
雅峰刑部大輔(4を選択)
大勢は変えられなかったのではないか。
阿修羅 主馬首 (6を選択)
徳川の圧力に屈し豊臣家の国替えに尽力し豊臣の命脈を一応大名として保ち、大阪の陣はおきなかった。
水城(2を選択)
この人が陣頭に立つなら、
家康亡くなるまで長期戦になる勢力図になってた可能性あると思う
琉球守時行(4を選択)
やっぱり1人では勝てん❗
m(。≧Д≦。)m
穀蔵院右兵衛佐飄戸齊(5を選択)
牙を抜かれた張り子の虎には何も出来ない。
真田幸村は九度山を脱出して豊臣の恩に報いたが清正にはそんな度胸はない。後世、清正を余りにも過大評価し過ぎた。
加藤家が二代で改易になっているのが証拠。
まさ宮内卿猛虎(4を選択)
一人では叶わぬ事だが、清正の主張を受けて同調する者はいたでしょう。取り巻く武将の士気も変わります。
キャプテン(4を選択)
清正には関ヶ原の時点で戦略眼がなかった。
征夷大将軍西大寺信誠(1を選択)
と期待したい
左近衛少将 rstones(4を選択)
清正公一人じゃなあ...
ともき(3を選択)
家康は清正が怖いと思う
出羽守たか丸(6を選択)
福島、黒田のように江戸に留め置かれ、大坂の陣には参戦できない状態でしかなかったが、豊臣家が60万石程度でも存続できるように豊臣を説得した。
ムササビ39(6を選択)
大坂の陣が発生せずに家康の寿命がつきて豊臣は存続した
左門左衛門佐阪金府皇(1を選択)
だったら、面白いかも…(^_^;)
黒田隠岐守如水(1を選択)
でしょ!
百段上総介久太郎(2を選択)
秀頼の側近にあって、消極的事態だけは避けることができたのではないでしょうか。
摂津守六文銭のだい!(4を選択)
大阪の陣が、もう少し遅くなったかも。でも、結局対戦になれば、自分は隠居して一人大阪へ行ったのではないでしょうか。清正公ほどの人なら、関ヶ原以降の時代の流れは感じているはず。家も忠義も大事なこと。
上総之衛門(6を選択)
豊臣家を天下人としてではなく、足利家や織田家の末裔以上の高家として存続させられていたかも。
紫瑠美明(5を選択)
残念だけど時既に遅し、
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