地理的環境
宮崎城は、宮崎県の海岸部に広がる宮崎平野南半部のほぼ中央に位置する。
広義の宮崎平野は、宮崎県の北部に位置する日向市の南部を東流する耳川付近から、県央の宮崎市南部の木花付近までの海岸線と、上記2ヶ所から内陸側の宮崎県野尻町付近まで伸びる丘陵縁辺とを結んだ約800平方キロメートルの三角形の範囲を言う。
宮崎平野はその中央を一ツ瀬川が東流し、一ツ瀬川の両岸には低丘陵が海岸部に向けて張り出しているため、南北に分断されたような形になっている。細かく見れば、当然ながら、平野内においても丘陵、台地等による地形の起伏があり、内陸丘陵地帯から張り出した標高100m未満の丘陵が、水田地帯となる狭義の海岸平野部の縁辺を形成している。
この低丘陵の縁辺には多数の山城が築かれており、宮崎城もまた、平野部を見渡せる、丘陵縁辺部に位置している。宮崎平野を流れる河川のうち最大のものは宮崎市のほぼ中央を東流する大淀川であるが、この大淀川は下流において一旦、直角に近く流れを変えて南流し、のち、再び東へと流れを変えて河ロヘと至る。宮崎城は、大淀川が南へと流れを変えるいわゆる川曲の地点の左岸丘陵上に位置し、河川利用に適した環境にある。
平野部に向けて突き出した3本の尾根の中央の尾根に位置するため、両脇を別の丘陵で遮られるような形になるが、南東方向の眺望は開け、海岸平野の南端までを一望できる。
歴史的環境
中世においては、宮崎城とは迫を挟んで西側の丘陵上に「竹篠城」があり、大淀川を挟んだ南側対岸の跡江丘陵には「跡江城」がある。これらは宮崎城から目視できる存在であり、距離も近接するが、いずれも未調査であり、築城時期等不明である。その他、宮崎城から4km圏内には、「
倉岡城」「
丹後城」「新名爪地区城館跡」「島之内・広原地区城館跡」等、多数の山城が存在する。また拠点城郭としては、宮崎平野北端には
佐土原城、南端には柴州崎城が位置している。江戸時代には、一帯は延岡藩の飛び領となり、下北方台地の南端に、代官所が置かれた。
略史
宮崎城は別名「池
内城」「目引城(目曳城)」「龍
峯城」「馬索城」とも言う。記録における初出は、『日向記』『土持文書』における建武3年(1336年)、南朝方の図師随円・慈円親子(ないし兄弟)が池
内城(宮崎城)に拠り、北朝方の土持宣栄に攻められ、敗死したとの記事である。戦国期には、宮崎平野の支配権を巡って伊東氏と島津氏の争いが繰返され、平野部の要衝である宮崎城も、多くその争いの舞台となった。
文安元年(1446年)、伊東祐尭が県伊東氏の領有していた宮崎城を落とし、落合彦左衛門が城主となった。その後、1577年までの130年間、宮崎城は伊東氏が領有した。天文3年(1534年)、伊東氏の家督争いが起こり、長倉能登守に擁された伊東祐吉が宮崎城に入り、家督を継承した。
天文5年(1536年)、祐吉は宮崎城で死去し、翌天文6年(1537年)、祐吉の兄義祐が家督を相続し、宮崎城に入った。天文10年(1541年)、長倉能登守が島津忠広と手を組んで叛旗を翻したが、義祐によって鎮圧されている。その後、義祐は日向全土を支配し、天文23年(1554年)、
都於郡城(西都市)へと移った。伊東氏が日向支配を行った期間、伊東氏が領していた城を俗に伊東氏48城と言い、宮崎城もその一つに数えられる。
元亀2年(1572年)、木崎原の合戦で伊東氏は島津氏に大敗し、続く耳川の合戦において、日向全域の支配権は島津氏へと移つた(伊東氏の豊後落ち)。天正8年(1580年)、島津家の老中職にあった上井伊勢守覚兼が宮崎城に入り、以後、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州仕置まで、覚兼は
佐土原城主島津家久を補佐し、日向支配を統括した。覚兼自身の手による『上井覚兼日記』(大日本古記録)には、この間の城内での生活が詳細に記されている。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐の際、一時期、伊束祐兵が宮崎城に入ったが、祐兵は鉄肥(日南市)を知行することとなり、宮崎は縣(延岡)の高橋元種領となり、権藤種盛が宮崎4万石の地頭として、城代を務めた。慶長5年(1600年)9月29日、関ヶ原合戦の余波により、
清武城主稲津掃部助の軍勢が攻め寄せ、権藤種盛は自刃(降伏を容れられず、討ち取られたとも言う)、宮崎城は落城した。その後、一時期、稲津掃部助が宮崎城に入り、各地で島津勢との間に小競り合いを続けていた。これは、東軍方の伊東氏の家臣である稲津掃部助が、当初、西軍に属していた高橋氏が東軍方に寝返っていたことを知らずに起こった同士討ちであり、その責任を取らされる意味もあって、慶長7年(1602年)、稲津掃部助は主家から誅戮されている。宮崎城は、慶長6年(1601年)、徳川氏の指示により、伊東氏から高橋氏に返還された。
慶長18年(1613年)、延岡領主高橋氏が改易され、翌、慶長19年(1614年)、肥前から延岡に転封された有馬直純が宮崎も領有することとなったが、元和元年(1615年)の一国一城令により、宮崎城は廃城となった。
記録に見る宮崎城
宮崎城に関する記録、記述のうち、最大のものは、島津時代の城主であった上井覚兼の手による『上井覚兼日記』である。『上井覚兼日記』は天正2年(1574年)から天正14年(1586年)、覚兼が29歳から41歳の間に書かれた詳細な日記であり、当時の武家社会における習俗を知る一級史料として高く評価されている。その記載は政治・軍事・経済・宗教・文芸等多岐にわたり、天正8年(1580年)に宮崎城主となって以降の記事でも、宮崎衆を率いての肥前、肥後、豊後への遠征や、折生迫湊の寄船検分、鉄砲凸兵船造り、長曽我部元親ら他大名との通信などの公人としての活動や、茶会の開催、戦記の朗読、連歌の添削、住民たちの盆踊りや芝居の見物、和歌、俳諧、四半的、将棋、双六、蹴鞠、香、鶯合わせなどの私人としての覚兼、満願寺、奈古神社をはじめとする寺社への参拝や僧、宮司との交流、島津義久の病気平癒のための祈祷などの信仰面についてなど、当時の武将の様々な面を知ることができる。その中で、宮崎城の作事に関しては天正11年(1583年)に毘沙門堂の建立、弓場の普請、柏田間の道普請、天正13年(1585年)に柏田回の普請、天正14年(1586年)に金丸日の普請などの記事があり、他に茶室や湯殿、庭園の存在もわかる。また登城日として柏田日、金丸日、和田日、日曳口が記載され、覚兼の側近20人程が「城内之衆」として、覚兼とともに、城内に屋敷を構えていたことなどが知れる。今後、発掘調査等において史料と考古資料との整合が計れれば、意義深いものとなろう。
柏田の直純寺に伝わる『直純寺由緒書』には「本丸」「南(之)城」「小城」「野首(之城)」の4つの曲輪名とともに、それぞれの規模(本丸:竪四拾三間 横弐拾弐間、南城:竪四拾間 横五拾三間、小城:堅三拾弐 横九間、野首:竪四拾六間 横四拾四間)と関ヶ原合戦当時の守将名が記されている。直純寺は高橋氏時代の城代であった権藤種盛の孫が初代住職を務め、境内には種盛の墓碑が立ち、宮崎城とは因縁浅からぬ寺である。ただし、この『直純寺由緒書』の成立年代は不明である。
幕末、飫肥伊東藩の家老であった平部峡南の手による『日向纂記』には、関ヶ原合戦当時の、
清武城主・稲津掃部助による宮崎城攻略について、詳細に記されている。それによると稲津勢は宮崎城の南東にある奈古山に陣を敷き、宮崎城の南西方向に位置する大淀河畔の柏田に伏兵を置いて、清武勢2300余人、飫肥の援兵700余人、総勢3000人をもって宮崎城に攻めかかった。
対する宮崎城側は城主権藤種盛以下、士卒100余人、雑兵450余人、都合570余人とあり、更に弓20張、鉄砲17挺、槍長刀30筋、大小刀30腰と、その装備まで細かに記している。また、満願寺口、船力崎口、目引口、野頸口などの登城路や、柏田曲輪、本丸などの曲輪名と、各守将、配置された人数まで記され、清武勢のうち、本丸や各登城口への一番乗りの功があったものや、首領級の首級を挙げたものの名が記されている。
『日向纂記』の記述は詳細であり、歴史ドラマとして生き生きと描かれ、当時の情景が眼前に浮かぶようである。ただし、宮崎城が城郭として機能した時より大きく隔たった幕末に著されたものであり、また著者の平部峡南は、いわば宮崎城の敵方であった伊東家の家老である。さらには、宮崎城を攻略した稲津掃部助は、その後、主家の意に従わなかったとして切腹させられている。このような複雑な事情を反映している可能性もあり、記述のすべてを事実として鵜呑みにはできない。
同じく平部峡南が明治期に記した『日向地誌』は、県内全域にわたって、各郡、各村の面積、地勢、人口、産業、寺社、史跡等を記した膨大な地誌である。その中に、宮崎郡池内村の古跡として、宮崎城が記載されている。記事には「椎城(本城)」「齊藤城」「服部城」「長友城」「彦右衛門城」「射場城」と各曲輪の名称があり、人名が付くものは慶長年間における各曲輪の守将の名としている。また登城口についても「四門アリ西南門ヲロ曳ロト云東南門ヲ船ヶ崎ロト云東北門ヲ野頸ロト云満願寺ロト云」と記している。このうち、東北門の野頸口については、『日向纂記』の段階では「野頸口。柏田曲輪廻リノ大将ニハ権藤仲右衛門尉……」と記載し、城西の柏田方面に面していると考えていたようであるが、『日向地誌』において東北門と訂正したようである。現在、城の北東方向の迫に2本、南東方向の迫に2本(うち1本は最近の取り付け)、今日でも利用されている明確な登城路があり、細部において当時との違いはあろうが、大枠のルートとしては、『日向地誌』記載の「野頸日」「満願寺口」「船ヶ崎日」に比定できる。また西南の「目曳口」についても、現在は殆ど使われていない尾根上の道があり、「目曳口」に比定されるかと思われる。『日向地誌』には城の北東に位置する満願寺についても、真言宗都於郡黒貫寺の末寺で、明治3年に廃寺となったことを記している。
『日向地誌』は現地での踏査や聞き取りを主として記述されたものである。各曲輪の名称などは、極めて個性的なものであり、現在でも地元で親しく用いられているものではあるが、宮崎城が城郭として機能していた当時のものか否か、慎重に検討する必要があろう。
なお、前述の『直純寺由緒書』であるが、同文書記載の曲輪名は、「野頸」以外に『日向纂記』『日向地誌』の記載と合致するものがなく、「南之城」「小城」と極めて客観的な名称である。その成立年代は、少なくとも「服部城」「彦右衛門城」などの個性的な呼称が成立、定着する以前の、江戸期のことと思われる。
立地と歴史的背景
宮崎城は宮崎市街の中心から北6kmに位置する宮崎市池内町に所在し、主郭は標高93m、山麓との比高差が約70mの丘陵上に占地していた。宮崎城はいくつもの頂部や鞍部を含む南北に伸びた丘陵を利用しており、周囲の丘陵と比べてとりわけ高い地形ではない。しかし樹木が茂っている現状でも木々の間からの眺望はよい。また城下集落を形成するのにふさわしい支谷にめぐまれ、城の南西2kmには大きく蛇行した大淀川が迫って水運の掌握に適したことも、ここが城に選ばれた理由であろう。
宮崎城には、池
内城、龍
峯城、日曳城、馬索城の別称があった。
この城の歴史は南北朝期にさかのばり、その後、室町期から戦国期まで
都於郡城に本拠を置く伊東氏家臣が城主を務めた。しかし伊東氏は1572年(元亀3)に木崎原の戦いで島津氏に敗れ、1577年(天正5)の福永氏謀反を契機に豊後国に退いた。そして島津氏は翌1578年の
高城耳川の戦いで大友氏を撃破して、日向国のほぼ全域を掌握した。
島津氏は1580年(天正8)頃までに島津義弘領の諸県郡西部、島津氏一族の北郷氏領であった諸県郡南部などを除いた諸地域に地頭を配置し、地頭・衆中制を整えた。こうして成立した島津氏の日向国支配の拠点城郭は30ヶ所以上におよんだ。宮崎城もそうした拠点城郭のひとつに数えることができる。
宮崎城は1578年に島津忠朝の家臣日置忠充が城主となり、1580年(天正8)8月から1587年(天正15)5月頃まで上井覚兼が城主になった。覚兼は1545年(天文14)2月11日生まれなので、36才から43才にかけてのことであった。このとき覚兼は島津家老中の職にあり、鹿児島にいた当主・島津義久の名代として
佐土原城の島津家久を助け、先に記した島津義弘領、北郷氏領を除く日向国の政治と軍事を統括した最高責任者であった。だから宮崎城は島津時の日向国支配において、もっとも重要な拠点城郭であったといえる。
こうした重要性とともに宮崎城を戦国史上で忘れることができない城にしたのは、城主の上井覚兼が書き残した日記の存在である(『上井覚兼日記』大日本古記録)。南九州戦国史の基本史料になっているこの日記によって、宮崎城内や麓の構造が知られるだけでなく、政治や戦い、日常の信仰・儀礼・文芸などのようすを具体的につかむことができる。これほど詳細な城主本人による同時代史料に恵まれた戦国期城郭は全国的にもまれである。後述するようによく残る現地遺構と合わせ、宮崎城の歴史的価値はきわめて高いと評価できる。
上井覚兼は宮崎城主として政務を果たすとともに、各地に出陣した。覚兼の宮崎城主としての最後の出陣は豊後国の大友氏攻めであった。1586年10月15日に宮崎城から出陣し、豊後国利満城下の戦いで日向衆を率いて秀吉から派遣された仙石・長我部連合軍を撃破した。この年は大友氏の城下町の府中(大分市)で越年している。
ところが羽柴(豊臣)秀吉が「九州国分令」違反として島津氏討伐のため大軍を派遣したことを受けて覚兼は1587年3月に宮崎城に撤退した。当然、宮崎城の改修を進め、防御を固めたであろう。そして同年5月には進軍してきた羽柴秀長に降伏した。覚兼は降伏後すみやかに宮崎城を退去したものと思われる。羽柴秀長は覚兼が飼っていた白南蛮犬を強く望んだ。しかしなかなか白南蛮犬を譲らなかったようで、覚兼は督促を受けている。最終的にどうしたかはわからない。その後覚兼は薩摩国伊集院の地頭を務めたが、45才の若さで1589年(天正17)に病没した。
覚兼退去後の宮崎城は縣三城とともに高橋元種の領地になった。元種は縣の
松尾城を本拠としたので、宮崎城は権藤種盛が城主を務めた。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは、高橋元種はのちに徳川方の東軍に寝返ったが、最初石田方の西軍に味方したため、東軍に属した
飫肥城主伊東祐兵の家臣で
清武城主の稲津掃部助に9月29日夜に急襲された。権藤種盛は弟の種利、種公らと防衛に努めたが落城し、自刃した。直純寺(宮崎市瓜生野)に伝わる文書によれば、本丸の城主は権藤平左衛門尉種盛、南城代は権藤八右衛門尉、小城と野首の城代は権藤忠右衛門尉とする。
関ヶ原の戦いののち、宮崎城は高橋元種に返還されたが、元種は1601年から
延岡城を築いて新たな本拠を整備しており、落城で大きな被害を受けた宮崎城をどの程度修復したか明らかではない。後述するように石垣や定型的な枡形といった慶長期にふさわしい痕跡が見られないことから、これ以降に最低限の維持はされていたとしても、実質的な城郭として宮崎城が整備されていたのは1600年の攻城戦までと見てよいだろう。
情報提供:宮崎市教育委員会