日出城は、木下延俊を藩祖とする日出藩主木下氏3万石(後に2万5千石)の居城である。別名「暘谷城」とも称され、これは3代藩主俊長が中国の古典『淮南子』或いは『書経』より引用し命名したものという。
歴史
延俊は天正5年(1577)、木下家定の3男に生まれ、細川忠興の妹加賀を正室に迎えており、忠興とは義兄の関係にあたる。家定はもともと平姓杉原氏を称していたが、豊臣秀吉に仕え、また、妹おね(高台院)が秀吉の正室となったことから、豊臣姓木下氏を許されたという。
延俊は父家定とともに秀吉に仕え、天正16年(1588)摂津国駒ヶ林500石、文禄4年(1596)には播磨国内2万5千石を封与された。家定は播磨国姫路2万5千石を与えられ、しばしば
大坂城留守居を務めており、延俊は
姫路城の城代も務めた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦では、忠興の進言にて徳川方に加勢し、関ヶ原に出陣せず
姫路城にて西国の兵に備えたといわれ、戦後、石田方残党の小野木縫殿助(重勝)が籠城する丹波
福知山城を忠興とともに攻め落とした。その後の延俊の動向は不詳であるが、忠興の論功行賞の上聞を経て、当時忠興の領していた豊後国速見郡内3万石が割譲・封与され、ここに木下氏と日出の関係が始まる。
慶長6年(1601)4月、延俊は家臣中村甚左衛門、山田善右衛門を先発させ、細川氏家臣松井康之より領地を受け取らせ、同年8月に日出への入封を果たした。以後、日出藩主木下氏は、2代藩主俊治の弟延由へ5千石(立石領)が分知されたことで、その所領は2万5千石となるが、江戸時代を通じて転封や改易を受けることなく、16代270年におよび存続する。
慶長6年8月、日出に入封した延俊は、領内藤原村に仮屋敷を構え、日出城の築城に着手した。城の縄張は義兄の忠興自らが行い、石垣は忠興の家臣穴生理右衛門を棟梁に普請が行われた。築城に必要な労力も忠興の命により豊前から動員され、城の北にそびえる鹿鳴越山系の大木がことごとく伐採され木材に用いられた。また、天守は家定の助勢により築かれ、裏門は
富来城(現国東市)の扉が転用されたという。こうして翌7年(1602)8月、日出城は概ね築城され、延俊は入城を果たした。
構造
日出城は、南の別府湾に突出する低台地上に築かれた。南端の急崖に本丸を設け、北三方を二ノ丸が囲い、東に三ノ丸、北には更に外郭を配した構造をなす。各郭は堀(内堀・中堀・外堀)により仕切られ、郭境の要所には門が設けられた。
本丸は、藩主御殿を中心に、大手門・搦手門(裏門)・天守・望海楼(久頓櫓)・渡り櫓・月見櫓(金物櫓)・裏門櫓・隅櫓(鬼門櫓)が築かれた。北東隅の城壁は入隅の構造をなし、これは北東の方位が禍を招く鬼門に相当することから、入隅とすることでこれを除ける「鬼門封じ」の性格を強く持つといわれ、ここに築かれた隅櫓(鬼門櫓)も北東の隅を欠いた特異な建築構造を持つ。
本丸南の城壁は、大きく張り出した天守台や望海楼(久頓櫓)櫓台とともに横矢が複雑に掛けられ、後堅固の様相を示す。二ノ丸・三ノ丸には、重臣の屋敷をはじめ、御茶屋、藩校等が設けられ、外郭には家臣や町人の屋敷のほか、城内入口付近に寺社が配された。
遺構
明治4年(1871)の廃藩置県以降、日出藩は廃止、日出城も破却処分となり、天守や櫓等は競売に付せられたが、隅櫓(鬼門櫓)と裏門櫓は取り壊しを免れ移築現存する。本丸跡は明治6年の(1873)暘谷学舎設立以降、学校用地として今日に至る。
現在、本丸跡が『暘谷城趾』として町史跡、『隅櫓(鬼門櫓)』が大分県有形文化財、『日出藩校致道館』が大分県史跡の文化財指定を受ける。
情報提供:日出町教育委員会文化・スポーツ振興課