富来城は国東町大字富来浦字本丸にあり、面積およそ20アール、現在の富来中学校から県道・御祖社御旅所のあたりにかけてあった。
古址現状
富来城は東と北が海に接し、南は富来橋右岸から、万弘寺に至る低地を含み、西は
城山から字三ノ丸あたりまで占めている。その中心部は、本丸という字名が示しているとおりである。
城地の西南隅にある松林の小丘で、その南の低湿田から仰ぐとき、往時の外郭、物見のおもかげを彷彿させるものがある。
城屋敷
城山の西崖から北方にかけ、堀の跡が続いているが、畑や家屋敷となっているところか多い。城屋敷といっている地帯が、二ノ丸と想定される。
堀跡
城山下部がもっとも顕著で、下手に細長く続き、お船入に通じているようだ。これと平行するように、北側は狭長の堀をめぐらし、町役場出張所の近くまで装置された。
ニノ丸にあった小高い丘の土を取って、深い堀を埋めた、と古老は語る。城東は加藤の屋敷から中学校地に上り、現校舎の外郭を囲繞した凹地があった。雑木竹籔が茂りあっていた記憶があるという。鉄砲町南側の堀跡は、今では湿田・泥池・七島田が、狭少な形で続いている。
鉄砲町
鉄砲方の住んでいたところで、いま20数戸ある。東端の竜神社から西面すると、213号国道ができるまで、石垣の一部が残っており、工事のとき持てあました巨石があり、この上の桑畑から、かつて多くの人骨を出したことがある。隅櫓の跡という。
構口
隅櫓の東方、海岸沿いに、かなりの石を築いた3メートルほどの石塁が、300メートル以上も断続して連なっている。構ロと呼ばれるところである。巨石には寛政5年(1793)と刻まれている。築塁は以前からあったもようだが、有名な孝子伊勢松が在世のころで、もちろん富来城は、廃城となって久しい。構口は搦手の名称であるが古老の言にしたがえば船が発着したところであったという。
川口の港は、のちに築港されたもの、この石垣の中は、いまは畑で酒屋の久保屋などがあった跡、古井戸も残っている。江戸時代に商家の繁盛した町で、横町・下町などは当時の名残りである。
お船入
富来橋から約200メートル西方の、川辺に近いところに、今は老木か茂っているが、ここが船を入れた跡、基部には巨石が積まれ、西方30メートルばかり、石垣が造られている。現在は人家が立ち並んでいるが、西方一帯の低湿地は、大船の繋留地であった。
空堀
城屋敷の西方100メートルのところの字名が空堀で、事実幅10メートルの、堀割風の段々畑や杉林、県道などで、様子は変わっているが、その跡とおぼしきものは確認される。
門畑
富来中学校の東南隅に、門畑という字名がある。この辺に本丸の城門があったのではあるまいか。
土塁の防壁
鉄砲町の裏側一帯に町を、屏風でかこったように長くつくられている。砂地であるべき地帯に、赤土(粘土質)が、多量に堆積されている。
参考文献
・『国東町史』より
情報提供:国東市教育委員会文化財課