小笠原長房が文永4年(1267)に築城したと伝えられるが、詳細は不明である。
戦国期には三好笑岩(山城守康長)の本拠であり、美馬三好二郡における三好氏の拠点的な城郭の一つであった。永禄年間には笑岩の子、三好徳太郎が守っていた(『城跡記』・『阿波志』・『南海通記』など)。天正4年(1576)三好郡に侵攻した土佐の長宗我部元親は、同5年(1677)に
白地城、同6年(1578)には
重清城などを次々と攻略する。同7年(1579)には徳太郎も元親に降伏し、同年12月、元親の配下となった徳太郎は
脇城主武田信顕らと共謀して、
脇城外の合戦で矢野駿河守や森飛弾守など三好方の主力を壊滅させている(『三好記』・『阿州古』)。
この
脇城外の合戦を機に美馬三好二郡は土佐方に属することとなる。その後、元親は四国の支配権を巡り、織田信長と対立する。天正10年(1582)、三好笑岩が信長の四国攻略軍の先鋒として阿波に入り、土佐方となっていた
一宮城や
夷山城を攻略する。これを機に徳太郎も再び三好方につき、阿波の武将の多くも三好方となり、土佐方は一時、牟岐まで後退することとなった。しかし、同年
本能寺の変で信長が討たれると、笑岩は畿内へ逃亡した(『城跡記』・『三好記』『昔阿波物語』など)。元親はこの機に乗じて大軍を発し、中富川の合戦で三好存保を打ち破り、
勝瑞城を攻略、さらに岩倉へ攻め寄せた。徳太郎は岩倉城を開城し、元親は城番として長宗我部掃部頭を入れ(『城跡記』・『元親記』・『阿波志』など)、長宗我部親吉の入った
脇城と共に阿波北部の支城とした。しかし、天正13(1585)、羽柴秀吉の四国攻略にあたり、岩倉城は羽柴秀次の攻撃を受け落城、その後廃城となった。
城跡は、脇町の中央部、新町谷川の西にある標高111mの河岸段丘上にあり、南は「丹波の鼻」と呼ばれる比高差50mほどの切り立った段丘崖、東西は深い開析谷により舌状に分断された天然の要害というべき地に築城されている。
城跡には広葉樹が茂り、貯水槽と記念碑がある。段丘先端付近は、昭和41年に農業構造改革事業により大規模に造成され、大きく地形が改変されている。造成工事の際には、地表下約70cmの地山層直上で焼土層が見つかったという。
参文献
・古城諸将記
・城跡記
・異本阿波志
・阿波志
・三好記
・昔阿波物語
・元親記
・長元物語
・土佐軍記
・南海通記
・阿州古戦記
・美馬郡村誌
・新編美馬郡郷土誌
・脇町誌
・徳島県史
・脇町史
・阿波の城
・日本城郭大系
・四国の小規模城館
・阿波新田氏
・甦る古城郡
情報提供:美馬市教育委員会文化・スポーツ課