脇城は古くは藤原仲房の居城とされ、後に三好長慶が改修し、家臣の三河守兼則に守らせたとされる(『阿波志』)。戦国期には武田上野亮信頼が在城した(『古将記』・『三好記』)。
天正7年(1579)に長宗我部氏の美馬郡制圧とともに武田氏も長宗我部氏に降り(『元親記』)、同年の脇城外の合戦では、三好徳太郎や三橋丹後守と共に土佐方に与し、森飛弾守、矢野駿河守など三好方の主力を壊滅させている『三好記』・『阿州古』。天正10年(1580)信頼は織田軍の先鋒となった三好笑岩の勧めに応じ、再び三好方となるが、長宗我部方の攻撃で脇城は落城、信頼は讃岐へ逃亡し、子の信定は自害したという。阿波を制圧した長宗我部氏は脇城に長宗我部親吉を入れて支城とする『古将記』)が、天正13年(1585)年の羽柴秀吉による四国攻めにより開城した。長宗我部親吉は土佐への帰途一宇山において南氏に討ち取られたという(『城跡記』)。羽柴軍の四国攻めでは、脇城と
岩倉城を秀次勢が攻撃した(7月21日「羽柴秀次書状」『小早川家文書』)。
また、秀吉から秀長への指令書(「羽柴秀吉書状」『藤堂家文書』)には、四国攻めの最終目標に
一宮城、脇城の二城の名が挙がっており、脇城が戦略的に重要な存在として意識されていたことが窺える。同年、秀吉より阿波を拝領した蜂須賀家政は、領国内に九つの支城(阿波九城)を配した。
脇城も阿波九城の一つとされ、「上郡表の惣押さえ」(『蜂須賀治世紀』)として筆頭家老の稲田植元が兵500(300とも)とともに守備に当たった『阿波志』・『年秘録』)。元和元年(1615)大坂夏の陣の功により、蜂須賀至鎮は淡路一国を加増されることとなった。寛永8年(1631)には二代の稲田示植が淡路城代となって脇町を去り、脇城は寛永15年(1638)一国一城令により廃城となった(『年秘録』・『賀島氏系譜』)。脇町は、脇城廃城後も在郷町として発展を続けることとなる。
山城跡
脇城は、吉野川左岸の標高110mの河岸段丘上に位置する。城の谷川や山根谷川等の開析谷によって形成された南西方向に突き出した、高さ60mに及ぶ舌状台地の先端を利用し、南東後方の台地続きを大規模な堀切で二重三重に遮断して築城される。
台地先端の主郭は、南北80m、東西60mの規模で、現状は山林であり、保存状態は良好である。南東以外の外周には土塁が巡り、中央やや北西寄りに径約2.6mの石組みの井戸が残る。北側斜面には「小堀」と呼ばれる空堀が配され、小堀の東側にも小規模な段が配される。いずれも防御上の弱点となる緩斜面に切岸を作出するための工夫とみられる。
主郭の南西に延びる尾根にも一段の小曲輪を配する。主郭の東は「大堀」と呼ばれる幅20mの堀切で遮断し、北側斜面も竪堀で遮断している。堀切には南北2箇所の土橋が設けられるが、南側の土橋が郭外から主郭に至る通路となる。土橋南面には石垣が部分的に残存する。主郭の虎口は内枡形虎口となっていたが、近年破壊を受け現存しない。
周辺には石材や瓦が散乱し、往時は石垣造りの枡形で、瓦葺きの門を備えていたと考えられる。採集された瓦は内面にコビキの痕跡が認められる。瓦は曲輪のあちこちに散布しており、瓦葺建物の存在が想定される。
主郭東側の曲輪は、南北120m、東西80m程の広さをもつ。北辺に土塁状の高まりが確認できるが、全体が耕作地となり保存状態は良くない。従来、脇城跡と認識されてきた部分が大堀と主郭を中心とするものなので(『脇町誌』など)、破壊が進んだのだろうか。
北斜面と南斜面の竪堀は良好に残っている。曲輪の東は、幅30mに及ぶ堀切で遮断される。徳島県下でも最大級の堀切であるが、山麓の秋葉神社から登る破壊道はこの堀切に到達し、堀底が道路として利用されるため、破壊が著しい。また、北側は宅地の造成により、堀が埋められている。堀切の東に広がる段丘は、水田や畑が広がり、ほぼ自然の地形をとどめる。本田昇は、南側の山根谷川から北に向かい低い城郭の外郭線のような段差が認められ、北端が竪堀となっていることから、脇城の防衛線であると考える(『事典』・『脇町史』)。現状では南の山根谷川は土砂で埋まり、北側の竪堀も確認できない。本田の調査から実に40年の歳月が流れている。なお、後述するように、山根谷川は山下の居館部分で想定される外郭線と一致することから、本田が考えるように山城部分でも外郭線となっていた可能性が高い。
現在見られる山城の大規模な堀切や竪堀、石垣などは、稲田氏の阿波九城の段階の改修によるものとされ(『脇町史』・『事典』)、外郭線も稲田氏時代のものと考えられる。武田氏時代の脇城は、県内の中世城郭の規模からすると主郭を中心とする程度であったと思われる。
居館跡
脇城の居館は、山城南麓の旧字「大屋敷」一帯にあったとされる。現状は一部の水田を除き、宅地が密集する状況である。後年の開発により旧状は留めないが、濠跡とされる水路や土塁の残欠が現在も確認できる。『脇町分間絵図』(文政元年(1818)・美馬市蔵)では山城部分に「
城山」、居館部分に「古城跡」の表記が見られる。また田所眉東の『阿波新田氏』には、今は現存しない『美馬郡村誌』の脇城の項が書き抜かれており、これによると脇城居館周辺には「奥丸・大屋敷・株木門・薬研堀・大堀」等の地称があったとされる。これらの位置については、『
城山藪周辺地積図』(天保年間・個人蔵)にも記載があり、その位置が確認できる。
濠は現状の地割と地籍図から幅6~8m程あったと推定される。貞真寺脇の湧水を水源とし、約200m南下して東から流れる山根谷川と合流し、西の脇人神社に向かい屈曲し、脇人神社の傍らを通り撫養街道に至る。脇人神社境内北東部には、土塁の残欠とみられる高まりが残る。居館の西側は城の谷川を濠として内側に土塁を巡らせる構造となる。土塁跡は地籍図では竹林となっており、幅10m余りに復元できる。
現状でも川縁は一段高い宅地となっている。以上のことから、北に山城を背負い、前面の三方を濠や土塁で囲んだ東西220m、南北200mのほぼ正方形の区画が大屋敷、つまり稲田氏の居館部分に相当するものと考えられる。なお、稲田氏は武田氏時代の居館を踏襲したものと考えられるが、武田氏の居館の規模等は現状の遺構や資料からは推定できない。
『脇町分間絵図』には、脇人神社から北に向かう直線的な薮の表記があり、地籍図でもその地割が確認できる。幅15m、長さ120m程に復元でき、居館中央を土塁が南北に貫く特異な形態となる。土塁の突き当たりには薮に囲まれた一角が描かれる。地籍図では、東西90m、南北60mの区画で、現状では宅地となっており、不明瞭であるが周囲より1m程高くなっている。『
城山藪周辺地積図』で「奥丸」と記載される当該箇所は稲田氏居館の中核部分に相当する可能性が高い。居館から山城へは、現在は秋葉神社の横から破壊道を登るが、かつては奥丸あたりから直線的に本丸に至る道が存在したという(『脇町誌』)。
ところで、居館西端の城の谷川は直線的に南下し、撫養街道(現県道12号)に突き当たり東に直角に折れるが、この地点に「大堀」の地名が残る。また、山城の東の谷から南流する山根谷川は貞真寺の東を通り、直角に西に折れて東濠に合流する。
この大屋敷と貞真寺を囲い込む、城の谷川―大堀―山根谷川に囲まれた範囲は、東西300m、南北300mとなり、稲田氏時代の脇城居館の外郭線であった可能性が高い。また、概ねこの範囲が中世の遺物散布地(『遺跡地図』)に重複する。
現在、居館跡の南端に鎮座する脇人神社は稲田氏が武田信頼・信定父子を祀るために慶長年間に開いた神社である(『阿波志』)。鳥居横の凝灰岩製の狛犬は風化が著しいが、かなり古い作とみられる。山麓の貞真寺は稲田植元が母の貞真尼の菩提を弔うために建立した寺院とされ、後に稲田家の菩提寺となった。稲田墓所(美馬市史跡)には稲田植元とその室、父貞祐とその室、兄景元と景継が葬られている。本堂は昭和30年の火災により焼失したが、唐門(美馬市有形文化財)が現存する。
文献
・古城諸将記
・城跡記
・異本阿波志
・阿波志
・三好記
・みよしき
・昔阿波物語
・南海通記
・阿州古戦記
・美馬郡村誌
・新編美馬郡郷土誌
・脇町誌
・脇町史
・阿波の城
・日本城郭大系
・図説中世城郭事典
・阿波の中世城郭
・阿波新田氏
・甦る古城郡
情報提供:美馬市教育委員会文化・スポーツ課