重清城については、『美馬町史』では『重清村誌』の記述を引きながら、阿波守護小笠原一族の国内への勢力扶植策の一環として、鎌倉時代末期に小笠原長親が築城したものとする。また南北朝期には、南朝方の
一宮城主小笠原成宗が正平18年(1363)に北朝方の細川頼之に降り、重清に退隠したとする説も記す。
戦国期には、三好氏の被官として長親の子孫、重清豊後守長政瀞重清城に拠っていた(『古将記』)。天正5年(1577)、土佐の長宗我部元親は、
白地城を攻略し、東進を開始する。同6年(1578)5月、元親の意を受けた馬路城主大西上野亮頼包は中鳥城主久米刑馬と共謀し、重清豊後守父子を城内にて謀殺、重清城を奪取する。元親は讃岐に逃亡していた元
白地城主の大西覚養を城番とし、これを守備させた。すると三好存保は直ちに重清城を攻め、当城を奪還し、大西口の押さえの城として城番を置いた。これに対し元親は翌6月に大軍をもって存保の軍と合戦に及び重清城を再び奪い返す。以後、元親は重清城を本陣とし、
岩倉城攻めに備えたという(『阿州古』など)。以上のように重清城は、土佐方と阿波方が三度にわたり奪い合ったという、阿波と土佐の攻防を考える上で重要な城館である。
美馬町西端、高瀬谷川の東に2kmにわたって広がる、吉野川北岸の中位段丘面は、大佐古谷・突落谷・城ヶ谷(船屋谷)・黒谷などの小河谷によって開析され、複雑な地形を呈する。
重清城跡は、城ヶ谷に接した標高100mの段丘中央部付近に位置する。吉野川を挟んだ南の川中島(吉野川改修工事により現存せず)には中鳥城がある。また城跡の南の段丘先端付近には、城主小笠原一族の墓や天正10年(1582)の長宗我部軍との戦いで焼失したとされる圓通寺跡に建立された枯木庵が存在する。
城跡の中央には城主を祀る小笠原神社があり、城跡碑(昭和37年)が立つ。社殿の周囲は、桜・欅・杉・椿・ツツジなどが植えられ、地元住民により定期的に草刈りが行われるなど、地域で大切に守られてきた城跡である。一部の破壊を除いて遺構の保存状態は良好である。
平成13年(2001)に美馬町(現美馬市)史跡に指定されている。
主郭は、南北65m、東西45mで北側が狭くなる台形状を呈する。北端にある石組みの井戸は往時のものとされる。主郭の西側は城ヶ谷の急崖を利用して防御とし、東側から北側には二重の堀と土塁を回す。堀は外側が幅4m、内側が7mで、土塁も内側のものがより高い。南東隅の虎口の北側には、虎口側と北側の横矢を意識した土塁の折れを設ける。土塁の折れは10m四方の方形に張り出す形状で、内側に井楼櫓が置かれたことも考えられる。主郭を囲繞する土塁は、城内側で高さ0.6~2m程で付近が最も高い。城内側の土塁裾には部分的に土留めとみられる石積みが確認できる。南辺土塁の外側には、民家があり現地表面では堀は確認できないが、平成15年(2003)に県が実施したトレンチ調査により、幅4m程の堀跡が確認されている。主郭西側の曲輪は、南北40m、東西12m程の長方形を呈する。平成15年の調査によって主郭との境に幅約3mの堀跡が確認されている。
近藤辰郎の『古城図』に昭和8年(1933)踏査時の重清城跡の縄張り図が掲載されている。これによると主郭の堀は東側で二重ではあるが、北側と南側は一重となっている。更に主郭の南方に東西方向の土塁跡と考えられる竹藪と堀、一段下った枯木庵の北側にも東西方向の堀が一条描かれる。また、城跡東側の谷の縁にも鍵の手に折れる南北方向の堀が描かれる。これらは現状では確認できず、地籍図でも明瞭には地割を特定できない。城ヶ谷の西岸には、北から流れる小河谷との合流地点を幅二間の掘切で遮断した三角形状の曲輪が描かれている。近藤により西ノ城とされるこの曲輪は、現在も掘切が残存し、曲輪も確認できる。
西ノ城は、重清城主郭と城ヶ谷を挟んで西100mの段丘上に位置する。現状は雑木林である。曲輪は城ヶ谷と西側の小河谷の合流点を以て西、南、東の堀とし、北側を幅5mの掘切で遮断する。曲輪の南側突端には土塁状の高まりがみられ、その先は開析谷特有の切り立った断崖である。また、東側には約10m下って平坦地が広がるが、近藤の図には見られず、隣接する砂防堰堤建設の際の工事ヤード等として造成されたものと考えられる。
重清城跡に見られる明確な横矢の折れを伴う二重堀(土塁)は阿波の中世城館の中では他に例がなく、貴重な遺構である。(二重堀は美馬市
森遠城跡に現存する他、かつて三好市
白地城跡にもあったとされる。)城跡周囲の段丘上には方形を基調とする地割が見られ、広く遺物散布地でもあることから、元々は重清氏の城とそれに伴う集落等が広がっていたとみられる。その後、再三にわたる土佐方と阿波方の争奪の過程で周辺に堀や曲輪を配しながら、最終的に最も中核的な部分を二重堀で囲い込んだものと考えられる。現存する縄張りは、美馬郡周辺の在来の築城手法によるものとは考えられず、ここを占拠した長宗我部氏の改修によるものとみるべきであろう。
文献
・古城諸将記
・城跡記
・異本阿波志
・阿波志
・元親記
・長元物語
・南海通記
・阿州古戦記
・みよしき
・昔阿波物語
・美馬郡村誌
・新編美馬郡郷土誌
・半田町誌
・美馬町史
・阿波の城
・日本城郭大系
・阿波の中世城郭
・阿波新田氏
・甦る古城郡
情報提供:美馬市教育委員会文化・スポーツ課