市の北東部、利根川を臨む台地上に布施の集落は開けているが、その内の字「古谷」「堂ノ下」にかけて城跡が存在したと考えられる。
明治から大正にかけて編纂された『富勢村誌』には、ありし日の布施城跡の様子が記されている。これによると、明瞭な城跡遺構が残る場所として、「
城山」と呼ばれている台地が挙げられ、縦40間(73メートル)、横約30間の規模で、北と西、東の三方に堀が存在したことが見えている。
この「
城山」の台地は、字「堂ノ下」の火葬場が建てられている舌状台地と考えられ、現時点では台地上面が土取りによって削平されているため、城跡遺構は確認できない。
この舌状台地の東側は、字「古谷」の台地が続いているが、ここには「
御城」「中城」「外城」の屋号を持つ旧家があり、『富勢村誌』によると「
御城」の屋号を持つ旧家の敷地内にも、以前小高い土手が存在したと記されている。
この字「古谷」の北側台地下、利根川の堤防沿いの一画には、「根古谷」の小字が伝えられている。なお、火葬場のある舌状台地の東側は、平成4年1月に、
城山遺跡として発掘調査がなされ、中世地下式土壙が三基確認されている。
布施城跡は現在城の遺構は認められないが、遺跡の旧状や城に関する地名の広がりを考えると、市域に現存する
松ヶ崎城跡、
増尾城跡、幸谷城館跡といった小規模な城跡よりも規模の大きい城が築かれていたと推測される。
布施城跡のある布施は、江戸時代利根川の河岸が置かれ、利根川対岸の茨城県取手市戸頭への渡船場(七里ヶ渡)が設けられるなど、近世、水陸交通の要地として栄えた場所である。だが、中世この地がどのような性格の場所であったか、知る手掛かりは少ない。松戸市本土寺の『本土寺過去帳』には布施の地名、人名が見出せる。
布施の地名は旧相馬郡内沼南町にも、布瀬の字を用い中世より確認されているが、過去帳に記されている地名、人名は、表記が市内の布施であるため、この地を示している可能性が強い。また、布施氏は『寛政重修諸家譜』の「相馬家譜」や、福島県相馬市歓喜寺所蔵、寛永21年(1644)の裏書を持つ「相馬之系図」によると、奥州相馬氏と分かれた茨城県守谷町の
守谷城主相馬氏の一族として見えている。
布施の北方、利根川対岸の茨城県取手市・守谷町一帯は、相馬氏の居城、
守谷城の周辺に位置し、相馬氏の支配が及んでいたと考えられる。こうした地域に接する布施は、
守谷城主相馬氏の影響を受けていたことは十分想定でき、前述の系図に見える相馬一族の布施氏も、柏の布施を拠点とした可能性が高い。
さらに布施は、相馬氏だけでなく、松戸市小金の
小金城主
高城氏との関連性も指摘できる。布施の旧家、成島家に伝わる古文書の中に、寛永5年12月5日付けの
高城主膳が成島大膳に宛てた官途状がある。この史料により
高城氏と成島氏が主従関係にあったことが判明するが、こうした関係は戦国時代まで遡るように思われ、
高城氏は成島氏を介して布施を勢力下に置いていた可能性があるといえる。
布施は、戦国時代には相馬氏。ついで
高城氏の両勢力が伸びていたと考えられ、布施城跡は両勢力の利根川南岸における支配の拠点であったと思われる。
情報提供:柏市教育委員会