名称(よみ) | 守谷城(もりやじょう) |
所在地 | 茨城県守谷市本町858 |
天気情報 |
04/28(日) 降水確率:40% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
問い合わせ | 守谷市生涯学習課公民館グループ[電話] |
分類・構造 | 平城 |
築城主 | 千葉師常 |
築城年 | 鎌倉時代 |
主な城主 | 千葉氏、相馬氏 |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀)、枡形 |
指定文化財 | 市史跡(守谷城址) |
再建建造物 | 石碑、説明板 |
平将門の創建と言い伝えられている。当時は霞ヶ浦に連なる大湖沼地帯に面し、本丸のあった出島の部分のみの天然の要塞であった。源経基が3万の軍で将門城を攻め落とした。
その後、源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の子小次郎師常が相馬一郡を領有し拡張され5連郭からなる相馬治胤の城(相馬城)となっていたが、豊臣秀吉の小田原征伐での後北条氏没落により、浅野長政軍が松戸小金城を落した次に、天正18年(1590年)5月相馬城を攻め落とした。徳川家康が関東に移封されると文禄2年(1593年)土岐定政が守谷領を受取り入城し、6連郭の城とし城下町や寺社を整備する。
現在守谷城碑の立っているあたり、現在地名馬場二本松に大手門があった。その先左側25軒に重臣25名の屋敷を設けた。現在守谷小学校があるのは第4郭で、その先第5郭の先に清水門があり本郭への入り口となる。第2郭が奥館で、第3郭に家老井上九左衛門の屋敷があった。面積30万平方mの大きな城であった。現在、城址はほとんどが住宅地になっているが、一部が守谷城址公園となって整備されている。城址の南に小さい沼があり、その東にある船着場という碑が名残である。旧294号街道(水戸街道と日光街道を結ぶ日光東照宮への脇往還であった)沿いに典型的な武家屋敷(間口が狭く、奥に長く一区画500坪単位)集落の区割りが見られる。八坂神社を現在地に移し、愛宕神社には九左衛門が寄進した鰐口が残っている。愛宕神社付近は足軽町、新屋敷の地名であった。城址から約1.5km東南の取手市との境に乙子(おとご)という地名があるが、ここに守谷城の落とし口すなわち落口(おとご)があった。
地勢的には利根川、鬼怒川、小貝川に面する海上交通貿易、脇往還としての陸上交通の要所であり、同時に北方勢力に対し江戸を守る要衝となっている。
土岐家・酒井家が去った後、守谷城は空城となったが、土岐家の整備した近代的城下町が残り、脇往還路、宿場として繁栄し、今日に至る。
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城郭口コミ
2023/12/31 04:11 RED副将軍
守谷城:茨城特有の大規模な空堀が見事な下総相馬氏の本拠地🏯オススメ度 ★★★★★築城年代は不詳。鎌倉時代初期に千葉師常により築かれたとされます。千葉師常は、有力鎌倉御家人で千葉氏三代当主である千葉常胤の次男であり、下総国相馬郡を領して相馬氏を称しました。戦国時代に伊達政宗と激しく争った奥州相馬氏は分家となります。1525年には相馬因幡守が守谷城を居城としていたことが足利高基書状で認められます。1555年頃には当主は相馬治胤であり、古河公方に従い簗田氏の配下で古河衆となっていましたが、北条氏が勢力を拡大してくると簗田氏は北条氏と和睦し従属。和睦の条件として守谷城は北条氏により接収され、相馬治胤はそれ...2023/11/02 01:09 加納下総守
守谷城:船着場の残る珍しい城址。北条氏が城を完成させた頃は内海が後退し始めて船着場も用をなさなくなったようです。城郭攻略情報
2023/10/18 11:03
一七式継衛
常総線 稲戸井駅に停車中ゲット2023/09/18 10:43
常陸介はるか
守谷城跡公園にて攻略。(リア攻め)2023/07/23 16:28
あざらし肥前守
公共交通:一例往路、常磐自動車道・高速バス乗車中、移動し関東鉄道常総線乗車中。(❜18・5攻略)2022/07/03 21:24
右近衛大将 カルシファー
守谷駅で攻略可能です。2021/11/05 10:07
副将軍こうちゃん播守
関東鉄道常総線「稲戸井」→「戸頭」駅間で攻略!!城主争い
来月度の城主争い戦況
1位 ブリューゲルさん 182回
2位 クロイツェル外記さん 179回
3位 石田治部少輔としさん 114回
守谷城の周辺スポット情報
攻略数:城
家臣団:人異名:個
官位:個ユーザー名タップで詳細表示 報告