小金城(こがねじょう)は、千葉県松戸市大谷口付近(下総国葛飾郡)にあった日本の城。
概要
標高20mほどの丘陵地帯にあり、古利根川、中川、荒川流域の低地帯を一望できる場所である。城域は東西800m、南北700mにおよび、12もの郭を備えて、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った平山城である。大谷口城、開花城とも呼ばれる。
要害の城であったが、太日川(現在の江戸川)の要でもあったため、水運により城下は市が立ち並んで金宿(後の小金宿)が形成され、周辺の本土寺や東漸寺が領主高城氏の保護を受けて栄えるなど、軍事的にも経済的にも栄えた場所であった。
城の歴史
築城と高城氏の居城
小金城は、千葉氏の重臣である原氏に仕えた高城氏の居城であった。享徳の乱で原氏が上杉氏と対立した際、上杉方の下総侵攻に備える拠点として、高城氏を小金に配置したと考えられている。小金城の起源を高城胤吉以前の原氏に求める説もある。小金城や根木内城では室町時代の陶磁器が出土しており、戦国時代初期には、小弓公方に追われた原氏が一時小金を拠点としていたことが知られている。ただし、この時期の原氏の拠点が、後の小金城と同じ場所にあったか、根木内城など周辺の別の城であったかは明らかではない。。
1530年(享禄3年)に阿彦丹後入道浄意が縄張りを行い、1537年(天文6年)9月に高城胤吉が築城したとされる。胤吉はそれまで栗ケ沢城や根木内城を拠点としていたが、小弓公方足利義明の進出に対抗するため、大谷口に小金城を築いて居城を移した。以後、胤辰、胤則まで3代にわたって高城氏の居城となった。
城には北の金杉口、東の大手口、北東の達磨口、西の横須賀口、南の大谷口が設けられ、横須賀口には家臣が居住していたとされる。
古河公方の滞在と上杉氏との攻防
永禄年間には、古河公方足利義氏の滞在や、関東に進出した上杉謙信への備えに関連して、城の拡張が行われたと考えられている。
1561年(永禄4年)7月から12月にかけて、義氏は小金城に在城した。義氏の小金移座の経緯について、北条氏康が古河公方家臣の野田政保に宛てた書状には、当初予定していた江戸城への移座準備が、義氏の生母・芳春院の死去などにより遅れたためと記されている。一方、黒田基樹は、小金城と江戸城の間に位置する葛西城が上杉方に奪われたための措置と解釈している。その後、義氏は上総国の佐貫城へ移ったが、正確な移座時期は明らかではない。佐貫城で義氏の在城が確認できるのは永禄5年5月である。黒田基樹は、同年3月に北条方が葛西城を奪回した後も、江戸城や葛西城への移座が議論された形跡がないことから、この時点で義氏は佐貫城に移っていたと推定している。
1566年(永禄9年)2月には上杉方に包囲されたが、高城氏は籠城してこれを退けた。黒田基樹は、小金城が一時的に古河公方の御座所となったことで、公方の正統性をめぐる争いにおいて特別な意味を持つようになった可能性を指摘している
落城と廃城
1590年(天正18年)の小田原征伐では、後北条氏方の高城氏が小田原城に籠城する一方、小金城は浅野長政ら豊臣方の軍勢に攻められて落城し、焼失した。発掘調査で確認された本城・中城の表土の赤色化は、この際の火災によるものと考えられている。
徳川家康の関東移封後は、家康の五男・武田信吉が入城した。信吉は1592年(文禄元年)に下総国佐倉城へ転封となり、小金城は翌1593年(文禄2年)に廃城となったとされる1600年(慶長5年)7月23日には、関ヶ原の戦いで東軍に属した里見義康が小金に陣を置いているが、小金城との関係は明らかではない。
廃城後の大谷口村
1698年(元禄11年)4月、下総国葛飾郡大谷口村の236石が、同郡栗ヶ沢村の知行地に代わって、旗本の土屋正克に与えられた。以後、幕末まで土屋家が圧政ではなく大熊家や八木原家などの有力者と相携えて村人と融和し両者対立することなく村の統治を行った。
現代
昭和40年代頃までは森林の中に遺構がほぼ完全な形で残されていたが、その後の宅地開発により多くが失われた。「本城」「中城」などの主要部分は、1964年(昭和39年)の宅地開発により消失した。本城へ通じる土橋と空堀も1960年代頃までは残っており、その写真が『日本城郭大系』に掲載されている
城跡の一部は大谷口歴史公園として整備され、後北条氏に関連する城跡で多く見られる畝堀や障子堀、土塁などが残されている。金杉口や達磨口付近にも遺構が見られ、達磨口には引き橋が架けられていたと伝わる場所に、土塁と堀切状の地形が残る。また、「馬場」と呼ばれる場所の付近にも、土塁や空堀の痕跡とみられる地形がある。
1962年(昭和37年)および1991年(平成3年)には、宅地造成に伴い松戸市による発掘調査が実施され、建物跡や櫓跡のほか、鉄砲の弾や陶磁器などが発見された。
2010年代半ばにも、本城とされる区域の一部に土塁が残存していたが、その後も減少が続いているとされる。
参考文献
- 千葉城郭研究会 編『図説房総の城郭』(国書刊行会、2002年)ISBN 4-336-04433-3
- 千野原靖方『東葛の中世城郭 千葉県北西部の城・館・城跡』(崙書房出版、2004年)ISBN 4-8455-1101-0
- 『日本城郭大系 千葉県/神奈川県』
- 「八木原家文書」
- 「旧大谷口村名主大熊家文書(松戸市史史料編1)」
- 『大倉邦夫自伝 : 希望に向かいて』(大倉邦夫自伝刊行会)
- 【書籍】「千葉県の中世城館」