義弘が大軍を率いていたら…(2017/09/05)
©2017「関ヶ原」製作委員会
関ヶ原ではわずか1,500の兵で西軍として布陣し、積極的に戦うことなく敗走した島津義弘。では、もし義弘が島津主力数万の軍勢を率いていたら、戦局はどう変わったか?
[投票実施期間]2017年09月05日~2017年09月29日
1.関ヶ原決戦場では西軍の主戦力として戦い、西軍を勝利に導いた。 |
|
2.史実と同じく傍観を決めこみ、積極的に参戦することはなかった。 |
|
3.大軍を警戒した家康から執拗な調略を受け、土壇場で寝返った。 |
|
4.決戦前から単独行動が可能となり、初めから東軍として行動した。 |
|
5.大軍ひしめく戦場では、それほど大勢に影響を与えなかった。 |
|
6.その他 |
|
「ニッポン城めぐり」利用者のコメント
柏木常陸介マサカド(4を選択)
「義弘が大軍を率いる=義久の意向を受ける」という事を前提で推理。島津家としては、豊臣さえ来なければという思いがありそうで、4の動きをすると思います。
銀侍(2を選択)
島津らしいと言えば島津らしいのでは…
水城(2を選択)
どっちも付かずに第三勢力になっていたと思う。
かげかつ(2を選択)
積極的に西に就くことはないと思う。が、西軍として参加した以上、土壇場の裏切もしないかと思います。最後の退却がもっと派手になったのかも。
島津大隅守龍伯(1を選択)
まず大軍で来ること自体ありえないです。また姫を人質にとられており他、諸事情で東軍につくこともない。先陣福島隊と井伊隊は押し返していたでしょう。
左衛門佐ヒロ(4を選択)
家康に助けてもらった恩義があるので。
堤玄蕃允晴孝(4を選択)
義弘が西軍についたのは成り行きから。数万の軍勢なら家康にも重用されたでしょう。
藤乃森伊勢守ふん(1を選択)
戦場での発言力が大きく変わったろうから。
✿MT✧能登守(4を選択)
実は豊臣嫌い
ジオング兵部卿瑞雲(6を選択)
そこまで糧食が持たないと思うので、動くに動けないかと。
伊達駿河守景宗(2を選択)
島津側で考えればこれでしょう。積極的に戦う義理はないし、自国優先、終始傍観どちらにもつかないと思います。
吉継(6を選択)
決戦前の夜討ちで東軍に大打撃を与えていた。家康は危険を感じて江戸に逃げ帰った。
takykigo権中納言(4を選択)
関ヶ原の戦い当時、薩摩を動かすのは反豊臣的な兄・義久であり、義弘には大軍を動かす力はなかったが、仮に大軍を率いたとしても、兄・義久の指示で東軍として行動したと思う。
(4を選択)
なんとなく
ヤン左衛門尉(4を選択)
元々東軍として参戦するつもりだったから、大軍を率いていたらやっぱり東軍として行動していたのでは。
でも、鳥居元忠の対応が史実と同じであれば、史実どおり西軍に参加していたかも。
毛利豊前守勝永(6を選択)
あの時点で畿内に数万の大軍を有していたら、秀頼を担いで独立するんじゃないかな。
ゆい(6を選択)
仏教の教えが掴めず。大軍でも中央突破した。
島津薩摩守忠将(6を選択)
旗幟不鮮明なまま大阪近郊に駐屯し、西軍の行動を大きく掣肘。関ヶ原の戦い自体が起こらなかったのでは?
石狩守らびっと(1を選択)
大軍を率いることで自信が増し、その勢いで兵を進めて勝利へ近づいたと予想。
史実ではどうだったかうろ覚えだが性格的に勢いがついて2はしなさそうなイメージ。
(2を選択)
若くないし。
カエズ常陸介ガリュキ(6を選択)
余力を残している分、色々な動きが出来たと思う。
オル添ーヴル座老う(6を選択)
タイ軍を率いていたら…東南アジア諸国と連係して自国を守る。民主主義国家との連係もあり得る。
毛利三兄弟(4を選択)
本当は、伏見城にて東軍として戦いたかったはず。大軍であれば受け入れられ、伏見城は落城しなかったかも…
式部大輔喜多(2を選択)
どっちに着けば自国の利益に繋がるのかわかるまで動かないと思う
SSRB主税頭(1を選択)
やはり気持ちとして、島津は親豊臣であり、三成への思いもあるはず…
島津が激闘を続ければ、小早川や内応武将も気持ちは変わったのでは?
しかし、当時の島津に大軍はどうしたって無理でしょう
真田左衛門佐幸村☃︎(2を選択)
歴史をなぞって
庄内尾張守矢田(4を選択)
やむを得なく豊臣に屈した島津。三成主導の西軍には付かない。
鉄印帳マイスタ征夷大将軍サテツ(6を選択)
島津が数万の軍勢を率いて九州を出れるなら、とっくに九州を平定していたはず。想定に無理がある。
楠木美濃守五郎衛門(6を選択)
島津勢が万を超える軍を率いていたら、家康は秀忠軍の到着を待つなど、軍備を整えてからの決戦になったのでは。史実より決戦が遅れたと思います。
俊寛僧都隼人正(1を選択)
前提が「主力数万」となっているので、三成も存在を無視出来ず、西軍主力として大活躍し、日向国を得て、再度、三州太守に返り咲く。と思いたい地元人。
かけろま(4を選択)
そのつもりでしたが、伏見城攻撃で巻き込まれましたね。
いずみ安房守(6を選択)
石田三成の扱いも変わり、気分も害さず、西軍として動いた。その前に、家康や鳥居元忠の対応も変わったかもしれないけど。
戦国鈴江城(3を選択)
持っていかれて金吾裏切れず、義に生きた悲運の名将のひとりとして名を残す
土岐内蔵助頼総(4を選択)
島津勢は伏見城という死地に赴くことを承諾していたのですから、仮に万全の態勢なら普通に会津征伐に従軍したのみでしょう。
てるちゃん内大臣【柴田軍】(6を選択)
西軍内での発言権が強くなる→局地的、短期的に西軍が優勢に戦いを進める。が、長期的に見て家康に対抗するに能わず。
Hanbey美濃守(6を選択)
危険すぎる!日本の中心部に島津軍数万?全てを蹴散らし天下統一しちゃうかも?
ひでき信濃守(2を選択)
結局は決断力。大軍を連れてこれなかったのもその人の実力。
天野丸次郎三郎(4を選択)
薩摩は遠方ゆえ、準備を怠らざることでごあす。
やよい姫遠江守(2を選択)
参戦するつもりはなかったのでしょう。もともと東軍のつもりだったから。
吉川左馬助隆景 (6を選択)
もっと楽に本国に帰れただけ。
りょうた(6を選択)
鳥居元忠とともに伏見で東軍として戦う 伏見陥落が遅くなれば西軍に勢いがつかず、東軍主力は会津へ
ひらちゃん(1を選択)
こうあってほしい。
金糸雀式部卿(2を選択)
そもそも戦意に問題を抱えていたように、お見受け致す。
山城征夷大将軍碑前守(3を選択)
もともと、東軍に内通していたので家康からの再度の調略で東軍に寝返る❗️
大蔵卿ボンネビルレコード(2を選択)
元々島津に積極的参戦の意志はなく、傍観を決め込んだと思う。ただ最後に決死の脱出でなく家康軍を叩き潰し勝者が西軍でも東軍でもなく島津なんてこともあったかも⁉︎
(1を選択)
五僧越えの史実はなくなり、多賀町との親睦もなしになるけど、こうだとおもしろいかな?
金箔加賀守ソフト(4を選択)
元々は東軍につく意思があったと思われ。西軍挙兵時大坂にいた為、寡兵も影響してやむなく西軍についた。(大軍を率いていれば、大坂にいなければ)行動が変わっていたと思う。
たかじん(1を選択)
義弘の夜討ち策を三成が受け入れていれば…
タイガー(6を選択)
伏兵や意表を突く戦いを得意とする戦法が地理の不馴れな地域で成功したかはわからないが、早い段階で義久への援軍要請も聞き入れられて兵に余裕があれば違った結果になっていたかもしれない。
まさむね(1を選択)
かもね。
191 件中 1~50 件目を表示中