福島正則は“かわいそう”か!?(2014/12/30)
福島正則肖像(部分)〔東京国立博物館蔵〕
豊臣秀吉子飼いの武将として名を馳せ、その後徳川家康に接近した福島正則。晩年は幕府に広島城無断修築を咎められ左遷されるが、あなたはそんな正則をどう思う!?
[投票実施期間]2014年12月30日~2015年01月15日
1.秀吉の恩を忘れ、家康の勢力拡大に加担した報いを受けたと思う。 |
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2.せめて猛将らしく減封を受け入れず、堂々と挙兵してほしかった。 |
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3.強き者を選ぶ事は当然だが、残念ながら生き方が不器用だった。 |
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4.秀吉死後も豊臣にも義理を果たしており、それが逆に仇となった。 |
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5.時の権力者に忠勤を励んだ結果、粛清されたことにただ同情する。 |
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6.その他 |
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「ニッポン城めぐり」利用者のコメント
日向夏隠岐守(3を選択)
清正のようならもっと違う名声だったかもしれないのが残念。
ヨッチ(2を選択)
挙兵してほしかったが、歴史の1ページに名前を残したので、これでよかったのでは
アンパンマン(3を選択)
家臣を養う為に強きに流れるのは仕方ないが、どうせなら黒田長政みたいに徹底的にやるべきだった。変に自分の我を通すあたりは不器用としか言いようがない。先が見えなかっただけかも…。
かわうそ(4を選択)
関ヶ原までは仕方ないとしても、その後の義理の果たし方が中途半端だったかも知れない。
結果的に左遷されるならば、やり方は変えるべきだったかも知れない。ただ、どの時点で?というのは、悩めかしいが…。
山縣中務卿昌景(4を選択)
後世から見ると、判断をあやまった
青き巨星弾正少弼かみ(3を選択)
結局は徳川の豊臣所縁のもの潰しに遭うと思うので、単純に生き残るなら徹底して徳川に合わせるべきだった。
ひで(4を選択)
徳川か豊臣かもっとはっきりすべきだった。態度が中途半端過ぎた
御壁信濃守ポン助(6を選択)
三成への遺恨だけでは無く腹をわり話し合いをしていれば、三成との戦も無く清須城主でいれたのに
(*¯ ³¯)っ旦(4を選択)
小早川のように、元豊臣方であっても、大して脅威にならなければ問題無しだが、福島も同じ元豊臣方であっても、一つ間違えれば脅威になりかねない存在であるから、何れにしても改易などは免れなかったと思います。
大宰少弐ためぞう(3を選択)
福島正則は愚直なまでにまっすぐ生きた人、というイメージが強いな〜
みのみの美濃守@流浪人(6を選択)
とどのつまり、権力を掌握した徳川家が、財力を持つ他武家を恐れた仕打ち…の構図が見えてしまう!
内藤修理亮信昌(6を選択)
かわいそうか!?と聞かれれば、かわいそうだと思います。
関ヶ原では先鋒として奮戦。家康にも秀頼を粗略に扱わないと念を押した上での東軍参戦だった訳で。
広島城の石垣の件も、はめられた訳ですし。
淡路守いな(3を選択)
いいように踊らされてたイメージ。可哀想だが仕方が無い。
いえろーまん左京大夫(4を選択)
実力者ゆえに狙われやすい。
かわいそうと言うよりは脇が甘かったと思う。
❖デストロン治部少輔(2を選択)
大坂に1万の兵を出してたんだから、最期も一暴れして終焉を迎えるべき
諏訪湖太郎(4を選択)
まさか、信州の奥地で亡くなっていたなんて。
tuyo左馬允1120(6を選択)
石田三成が嫌いという事だけで後の事を考えないかで行動した結果
冷静に考えればわかったはず
当然の結果
田塚大膳亮康弘(3を選択)
これに尽きる言葉は他にない
のなぼ式部卿三太夫Jr.(3を選択)
時代に必要とされなくなってしまった。もう少し上手く立ち振る舞いできていたなら、清正公のように名君の名を四百年後まで残す道もあったろうに。
天方民部少輔某(5を選択)
正直もっと可哀想な人は星の数程いる…
ともっち♪河内守(3を選択)
逸話からですが、武力に長けすなおでぶきっちょ大酒呑み…そんな性格からか人気もある…。土建系社長さまみたいな方(勝手なイメージすみません(>_<))なので、幕府も気をつけてみていたのではないですかね~
のんたろう雅楽頭(5を選択)
福島さんだって家臣団がありその家族もあり大変だったと思います❗️
結果は残念だけど
刑部少輔冬将軍(3を選択)
豊臣家への忠義という点だけで、自分なりに行動した結果なので。猛将ではあるが、調略含め仲間を募ったり、単独で挙兵する程の武将ではなかったという事ではないでしょうか。
黒田治部卿走兵衛(2を選択)
猛将!
猛将としての生き方を貫いてほしかった。晩年が特に残念。優秀な軍師が傍にいればもっとやりようがあったはず…(>_<)
津軽宮内大輔藤原信建朝臣(5を選択)
「我は弓なり、乱世の用なり。今治世なれば、川中島の土蔵に入らるるなり。」
ふばこ左馬頭(1を選択)
正則自身の心情として1かなと。
関ヶ原の後に三成に「太閤の恩を忘れた不忠者め」とやりこめられた逸話があります。
関ヶ原以後の正則は心の片隅に太閤への後ろめたさを抱えて生きていたのでは。
飲んだくれ山城守ジョニィ(6を選択)
豊臣家の縁戚だから…影響力もあるし、運命ですかね。
鶴亀仙人(6を選択)
家康とは昵懇だったのに潰されたのが二代目とその側近だからなぁ…3と5の両方かなと。妬みですかね。
摂津守茶太郎&猫友(3を選択)
三成憎しで家康に協力する形になったが、三成の下位で豊臣家に仕える事は、それ以上に耐えられないと思う。
タバスコ(1を選択)
当然のむくいだw
城井宇都宮智房(6を選択)
同情などしない。
完全なる自業自得。
1614年大坂城に入城してこそ豊家に少しは義理を果たした事にはなっただろうに…
井伊兵部少輔直政(3を選択)
何かこの答えがピッタリ当てはまる気がする。
我こそは眞田左衛門佐幸村(6を選択)
所詮は大国の殿の器ではなかったと言うこと。
勘解由長官殿様(4を選択)
1は家康が秀頼を守ると思っての行動。2はその前に大坂の陣で豊臣に付くべき。3は後半は合っているが秀頼を思っての行動。5は前述した通り時の権力者に付いた訳ではない。4がしっくりかな。
たこうえもん(3を選択)
3と4と5だな。
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