名称(よみ) | 平賀氏城館(ひらがしじょうかん) |
通称・別名 | 平賀氏城館[御薗宇城・白山城・頭崎城] |
所在地 | 広島県東広島市高屋町他(地図は御薗宇城を示す) |
天気情報 |
11/24(日) 降水確率:30% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
問い合わせ | 広島県教育委員会文化財課[電話] |
分類・構造 | 城館遺跡群 |
築城主 | 平賀惟長[御薗宇城]、平賀弘保[白山城・頭崎城] |
築城年 | 弘安年間(1278〜1288)[御薗宇城]、文亀3年(1503)[白山城]、大永3年(1523)[頭崎城] |
主な城主 | 平賀氏[すべて] |
廃城年 |
慶長5年(1600)?[御薗宇城]、不明[白山城]、慶長5年(1600)[頭崎城] |
遺構 | 曲輪[すべて]、土塁[御薗宇城]、帯曲輪[白山城]、屋敷跡[頭崎城] |
指定文化財 | 県史跡(平賀氏の遺跡) |
再建建造物 | 説明板(平賀氏の遺跡) |
平賀氏城館は、現在の広島県東広島市東北部を中心に、安芸南部で活動した国人領主・平賀氏に関係する城館群である。
御薗宇城跡、白山城跡、頭崎城跡、平賀氏の墓地が、「平賀氏の遺跡」として広島県の史跡に指定されている。
御 薗 宇 城
御薗宇城(みそのうじょう)は、安芸国高屋保、現在の広島県東広島市高屋町に築かれた日本の城(山城)。
沿革・歴史
鎌倉時代末期に、出羽国平鹿郡を本領としていた平鹿氏(平賀氏)の一族が、元寇に備えて西国に下り、御薗宇城を築いて拠点とした。南北朝時代に家督相続問題で家内に争いが起きたが、平鹿郡を所領としていた惣領の平賀直宗がこの高屋保に移り住んで、安芸国の有力国人領主として成長していった。
室町時代には安芸国の守護となった山名満氏(氏清の子)と対立し、応永10年(1403年)、満氏は平賀弘章が籠る御薗宇城を包囲して攻撃した。この合戦は平賀氏が他の安芸国人衆の支援を受けて3年に及ぶ長期戦となった。この戦いで弘章の子、平賀共益、平賀惟益、平賀惟元らは討死を遂げたが、最終的には山名満氏を撃退した。
時代は下り、戦国時代になると当主の平賀弘保は、文亀3年(1503年)に白山城を築いて新たな居城とした。しかし、御薗宇城は維持されたようで、廃城年は慶長5年(1600年)前後ではないかと推測される。
城跡の概要
御薗宇城の規模は、東西120メートル、南北170メートルに及ぶ。山城ではあるが比高も低く、平山城の形式に近い。防御拠点の機能も重視されていたが、城内には居館も併設してあり、鎌倉時代の御家人の居館様式を色濃く残している。
城郭は比高の低い丘陵を堀切で遮断し、3段の平坦な曲輪と、居館の場所を三方から馬蹄状に取り囲む土塁状の曲輪で防御している。
平賀氏の墓地
平賀氏の墓地はこの御薗宇城から北西500メートルにあり、平賀氏の菩提寺であった明道寺(廃寺)の跡にある。
この墓地には平賀弘保の墓、平賀隆宗やその妻の墓と伝えられる宝篋印塔や五輪塔、石仏等、約40基が現存している。
昭和44年(1969年)4月28日、平賀氏の墓地は、御薗宇城、白山城、頭崎城と共に「平賀氏の遺跡」の1つとして県指定史跡となった。
参考資料
・広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
頭 崎 城
頭崎城(かしらざきじょう)は、安芸国高屋保、現在の広島県東広島市高屋町貞重に築かれた日本の城(山城)。
歴史・沿革
戦国時代後半、この安芸国西条の地にも大内氏と尼子氏の勢力が伸び、両者の争いが激化していった。大永3年(1523年)6月、大内方の鏡山城が落城した。平賀氏当主平賀弘保は居城であった白山城の防備に不安を感じ、近隣の頭崎山に築城。嫡男の平賀興貞を城主とした。ところが、興貞は父の意向を無視して尼子氏に属し、大内方に味方した弘保と孫の隆宗・広相で争いを繰り広げることとなった。
天文9年(1540年)、大内義隆の命を受けた毛利元就がこの高屋保へと進出、頭崎城を攻略した。敗れた興貞は出家して、平賀氏の家督は興貞の嫡子である隆宗が相続した。平賀隆宗は大内方として活躍するが、天文18年(1549年)に備後国神辺城を攻撃中に死去した。祖父の平賀弘保は家督を平賀広相に継がせようと考えたが、大内義隆の策謀によって平賀氏の家督は小早川氏庶流の義隆の寵童が改名して相続し、平賀隆保と名乗った。
天文20年(1551年)に大寧寺の変で大内義隆が陶隆房(陶晴賢)によって殺害されると、陶方に味方していた毛利元就は、大内方であった頭崎城の平賀隆保を攻めて落城させ、家督を平賀広相に継がせた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封となると、平賀氏もそれに随行し、頭崎城も廃城となった。
昭和44年(1969年)4月28日、御薗宇城、白山城、平賀氏の墓地と共に「平賀氏の遺跡」として県指定史跡に指定された。
城跡の概要
標高504メートル、比高200メートルの頭崎山に築かれた城郭で、吉田郡山城に次ぐ規模を誇る広島県内最大級の城郭。城域は東西900メートル、南北600メートルの広大な範囲に及び、本丸に相当する甲の丸、西の丸、太鼓の段、煙硝の段、稽古場、大将陣等の曲輪群が残っている。
参考資料
・高屋町史
・県史跡頭崎城跡案内板
白 山 城
白山城(しろやまじょう)は、安芸国白市、現在の広島県東広島市白市に築かれた戦国時代の日本の城(山城)。
歴史・沿革
文亀3年(1503年)に平賀氏当主の平賀弘保は、居城であった御薗宇城の防備に不安を感じ、白山城を築いて居城とした。しかし、この城も堅城とまではいかず、白市を眼下に望み経済的には有利な城であったが、近隣に滝山城、新開城等の支城を整備して、最終的には頭崎城を築くまでに至った。
平賀弘保の息子、平賀興貞は頭崎城に入ったが、後に大内氏と尼子氏との対応で意見が異なり、親子で度々争った。後に毛利氏の介入によって親子の争いに終止符を打ち、家督を平賀隆宗に継承させた。
城は頭崎城が完成後も維持された。廃城年は不明。
概要
白市の街を見下ろす標高314メートル(比高130メートル)の城山に築かれた山城で、最高所の曲輪は三段に分かれており、その周囲を帯郭が取り囲んでいる。この曲輪群から北西・南の尾根上には中小の曲輪が配置されて防備を固めていた。
また、城内には松尾芭蕉の門人志太野坡の高弟で、俳人多賀庵風律が寛政5年(1793年)に建てた「鶯塚」の石碑が残る。
城下町白市
城下には平賀弘保が永正2年(1505年)に建立した光政寺があり、一族の木原家の歴代墓所が残る。その木原家は平賀弘保の弟、木原保成を祖とする一族で、初代の保成は慶長5年(1600年)に平賀元相が長門国萩に移住すると、毛利氏を離れて紀伊国和歌山を領した浅野氏に仕えた。その後、この故地に戻って商売を始め、江戸時代初期から酒造業や塩田業を営み、安芸国有数の商家として栄えた。現在でも白市に残る寛文5年(1665年)に建てられた「木原家住宅」は、昭和41年(1966年)6月11日に国の重要文化財に指定されている。
白市は江戸時代に入ると、交通の要衝として栄え、元和3年(1617年)に牛馬市が開かれるようになると、その発展を加速させた。この白市の牛馬市は中国地方の三大市と呼ばれ、伯耆国大山、備後国久井とともに、明治から昭和の戦前にかけて大いに賑わった。
参考資料
・広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
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2023/05/05 05:44 カズ
平賀氏城館:平賀氏城館のうち、御薗宇城跡と白山城跡を訪れましたが、白山城跡は登城口が分からず、倒木などに苦労しつつ適当に登りました。山頂付近に、城の遺構らしき削平地や堀切と思われる場所はありましたが、事前に見ていた縄張り図とはどうも様子が異なります。隣接した城は無かったと思いますので、あれは一体何だったのか、詳しい方はご教示をお願いします。目印のない道を歩いていたので、帰路は勘を頼りに下り、偶然に同じ道に出ましたが、行き当たりばったりは駄目だと痛感しました。次に、御薗宇城跡に向かいました。説明板付近に車を停めるスペースはあります。低い丘に築かれていますが、周辺地との高低差はそれなりにあり、高い土塁が見どこ...
2022/04/30 18:14 織田上総介晃司
平賀氏城館:御薗宇城登城口に縄張り図と説明文があり、少し広いスペースがあるのでそこに駐車しました。御薗宇城は広くないので短時間駐車して見てまわれます。今回は御薗宇城だけでしたがのこり2城もいずれ行こうと思います。
来月度の城主争い戦況
1位 風呂の前 安芸守さん 142回
2位 さちさん 69回
3位 ヒ~ロ安芸守さん 61回
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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