古市城(ふるいちじょう)は、奈良県奈良市古市町にあった中世の日本の城(平山城)。大和国の有力国人・古市氏の居城。
概要
奈良盆地と大和高原を分ける稜線から西へ下る段丘の中位に立地し、標高は約104メートル、比高は約17メートルを測る。大和守護格であった興福寺の所在地、すなわち南都を望む位置にあたる。段丘の下には古市集落が開ける。ここは大乗院門跡の支配下にあった「福島市」の故地にあたり、商人や馬借の往来する都市的な場として賑わった。
古市氏の居館は、明治期の地籍図によれば字「古城」(現在の県営光ヶ丘高円団地一帯)にあり、内部を二つに区切り、北東の隅をクランク状に折った、一辺およそ150メートルと140メートルを測る方形の居館跡をたどることができる。一方、幕末に写された絵図は、谷をはさんだ南の台地にあたる字「上ノ段」(現在の奈良市立東市小学校の校地)を本丸として描く。ただし字上ノ段については、15世紀に「上壇衆」と称する地下人が住んでいたこと、また経覚を迎えた迎福寺が置かれていたことが確かめられる。以上から、城館の範囲は字古城にとどまるとする見方が出されている。
城跡西側の台地下に広がる古市集落は、北口・南口・延命寺口という三か所の出入口をつなぐ直線の道に沿い、短冊型の地割が並ぶ町屋集落で、南北の長さはおよそ500メートルに及ぶ。かつては、東を除く三方に濠をめぐらせた環濠集落が城を縦断する横堀とつながり、戦国大名に先んじた惣構えをなしていたと説かれてきた。ところが地籍図から追える集落の堀は各出入口の周辺にとどまり、城域の東を縦に走る長大な横堀も見あたらないため、惣構えの最初の例とする評価は改められている。一方で、城下町の経営に向かわなかった畿内にあって、町場の機能を城の隣に置こうとした試みとしては、なお先駆的とみなされている。
江戸期に書写された絵図(『古市新城之図』)によれば、最大時には5町四方で、南・北・西の三方に各門があり、その大手を延命寺口といった。主要な建物の屋根は板葺、壁は白壁で、それ以外は茅葺・土壁等であった。なお、幕末の国学者、北浦定政が写した『大和国添上郡古市新城ノ図』の系統には、白壁・石垣・天守を備えた近世城郭風の姿が描かれるが、これは想像図であって史料的価値は認められないとされる。
耕地化・宅地化により、城の遺構は完全に消滅している。
歴史
当城に拠った古市氏は、1320年代より史料に登場し、室町時代には興福寺大乗院の坊人として有力な存在となった。古市の里は「福島市」の故地にあたる。この市は鎌倉時代には大乗院門跡の支配下にあり、古市氏はその下司(代官)を務めた。
古市胤仙は文安元年(1444年)の興福寺を二分する争乱では、経覚に従って当城から筒井氏と対峙し、筒井氏に代わり衆徒の棟梁となるとともに、庶家の反抗を抑えた。この争乱で古市方は越智氏や経覚と結んで南都に鬼薗山城・西方院山城を築き、古市城はその出撃拠点となった。文安4年(1447年)には奈良を追われた経覚を半ば強引に古市の迎福寺へ移し、続く古市胤栄は応仁の乱に西軍として関わるとともに一族・家臣の統制を強化して権威の回復に務めた。古市澄胤の代に全盛を迎え、文明年間(1469年 - 1487年)にかけて城を拡張し、城内に堀や大規模な馬屋、風呂などを設け、連歌や茶の湯が催された。文明10年(1478年)、澄胤は、官符衆徒の棟梁に就いた。これは大和守護代に准じる地位である。
明応6年(1497年)に白毫寺で筒井勢に敗れ、城に火を放たれて落城・破却された。同8年(1499年)に細川政元の支援で澄胤が復帰して翌年に城を再建したが、永正元年(1504年)に再び落城した。翌年さらに再々建され、同5年(1508年)に澄胤が河内で敗死すると後継の公胤は城域の中心を南に移している。これ以降の古市氏は、稜線上の鉢伏城(古市山城。史料にいう「山ノ城」)と東の山間にある大平尾とを主な拠点とし、古市城のほうは南の小丘に築かれた高山城・藤原城(城山城)へ中心が移ったとみられる。なお、松永久秀に従った時期に城山地区へ築かれた「永禄の新城」を、この城山の城(藤原城)に比定する説がある。
天文12年(1543年)に筒井順興に敗れた際、城は古市氏によって焼かれ(『明応六年記』)、さらに城跡の竹木が切り払われた(『大乗院日記目録』)。
史料『古市氏由来幷古市新城之絵図』
奈良文化財研究所は、北浦定政関係資料の一つとして『古市氏由来幷古市新城之絵図』を所蔵する。もと北浦家に伝わり、1992年(平成4年)に同研究所へ寄贈された。冊子のほうは袋綴装で11紙、絵図のほうは楮紙に彩色した続紙3紙からなり、縦27.3センチメートル・横93.4センチメートルを測る。絵図には文久4年(1864年)正月に写した旨が記される。
冊子の文章を書いたのは広瀬新五郎で、古老4人からの聞き取りによる。北浦定政はそれを写したとみられる。「今天和元禄之比」という語が見えるので、原本の成立は天和・元禄以降にくだるとされる。写本には後から貼られた6枚の貼紙があり、定政が『和州諸将軍伝』などと引き比べて検討した跡が残る。
絵図の外題は、この城を永禄元年(1558年)に古市播磨守の父の周防守が築き、天正7年(1579年)に「大和大納言」のため落城したものとし、その跡を村の東南にあたる字「城山」とする。あわせて、古いほうの城は弘治のころ筒井順慶のために落城し、跡は氏神の東北の字「古城」であると記す。
絵図には69か所の書き入れがそえられ、四重の天主、本丸と二ノ丸、南北の惣堀、東西二か所の大手、三角形の「扇矢倉」、艮と乾の角矢倉、大門の番所などを示す。古市播磨守の知行高はおよそ8千石余とされ、藤原相模・八条勘兵衛・永井伊豆・鹿野園忠兵衛・横井日向・山村備前と、大平尾・邑地それぞれの七人衆が与力として挙げられる。
ただし、この由来書がいう永禄期の古市周防守は、同時代の史料に見えない。永島福太郎は播磨守と周防守を交互に置く系図を「管見では全く例がなく、この系圖は信ぜられない」と退けており、紹介にあたった前嶋真吾も、『多聞院日記』や『学侶引付写』に周防守の名がないことを確かめている。絵図の描く城の姿についても、想像図であって史料的価値は認められないとする評価がある。
文化・芸能
古市城では文化・芸能が盛んに行われており、連歌や茶の湯、盂蘭盆には風流踊が催されていた。淋汗茶湯と呼ばれる、風呂と茶を愉しむ寄り合いを行ったことで知られ、澄胤・胤栄兄弟は共に茶の湯の祖村田珠光の弟子になっている。
文安4年7月14日(1447年8月25日)から3日間にかけて古市城及び鹿野園では盂蘭盆風流踊、猿楽の興行が行われた。2日目の演目は「佐々木乗馬(佐々木高綱の宇治川先陣争いを題材にした風流)」、3日目の夕方には「天岩戸」の風流・猿楽が行われた。配役は寺僧や子弟が担い、手力雄明神は寺僧の善明、天照大神は三郎衛門の子、天女は寺僧・延浄が演じた。このとき9歳の小法師丸(後の胤栄)が囃子役を務めている。経覚は、能芸は抜群で遜色はなく、近隣の人びとが大勢押し寄せたと記している。
宝徳2年7月16日(1450年8月23日)の盂蘭盆は小法師丸が仕切り、綱引き、雪マロハカシ(演目名)、露天や売り子の出し物が催され、締めくくりは笠踊りであったとされる。
さらに18日夕方からは大規模な風流が行われ、その様子を経覚は以下のように記した。最初に鉾持ち2人、ついで鷺舞2人が先立って、衣装を着せて舞わせた。猿楽では、立烏帽子に織物・袴状の装束を着け、方衆2人、囃子方は2〜3人であった。次の演目は延年。まず赤衣二領、腹巻、立烏帽子を着た仕丁8人、次に絹衣、裏頭、長太刀を帯びた弁大衣の4人、遊僧4人、管絃者およそ10人が演じた。続いて大人・子どもの催し、次に腹巻に袴状の装束を着けた葉杖(葉の付いた杖(飾り杖)を持って舞う出し物)が6人。担き物3組、最後は乱拍子の舞で終える。
経覚は、総じて今日は格別に見事で、目と耳を驚かせる出来であった。見物は貴賤こぞって群集し、針を立てる隙もないほど。北口・南口両方の入口を制限していたので多く入れなかったが、見物は古市の町いっぱいに満ちた。近年まれに見る出来栄えであった、と評価した。
末裔
- 加賀前田藩の小松中納言前田利常の家臣として古市胤重が3,630石で召し抱えられた。墓地は金沢市光覚寺、野田山(加賀藩主前田家墓所)、奈良市古市町にある。古市家は加賀前田藩7代当主前田重煕の時代まで家来をつとめた。
- 豊前小倉藩茶道頭をつとめた(絶家)。墓地は北九州市の峯高寺と安正山立法寺にある。
- 肥後熊本藩茶道頭をつとめた。(肥後古流円乗坊流)
- 三井寺山内円満院の坊官をつとめた。墓地は大津市の霊雲山新光寺にある。
参考文献
- 【書籍】「角川日本地名大辞典」
- 【書籍】「中世後期畿内国人層の動向と家臣団編成-大和国古市氏を中心に-」/所収:【書籍】「中世後期畿内近国の権力構造」
- 【書籍】「畿内における最有力国人城郭と都市的な場の防御について-奈良盆地を中心として-」
- 【書籍】「奈良市史 通史二」
- 古市新城之図
- 平成27年(2015年)1月18日発行、古市氏系図続
- 平成27年(2015年)2月8日発行、西坊家口伝集続々