窪之圧の集落の北、山村丘陵に一部食いこむ東西2つの方形館の複合した城である。
城として見ると両館は両郭と表現することができる。現在南半部は道路と宅地化によって区画が不明瞭だが、北半の丘陵食いこみ部分は、外周の空堀・内周の土塁がよく残っている。
土塁の内側で測ると、東西両郭とも東西幅約45メートル、南北の推定は長辺が60メートル、短辺が50メートル程度である。
堀幅は西郭の北堀が14~16メートル、西堀が13メートル、東堀が11メートル、東郭では北堀が約8メートル、東堀が5~7メートルである。それ故堀外の規模は、西郭が東西幅約70メートル、東郭はそれより約10メートル小さくなる。ただし、西郭の東堀が東郭の西堀のスペースを奪い取っているので、東郭の外幅は測れない。この規模は、山村館よりは小さいが、伊賀・甲賀地方に多く分布する丘腹切り込み式の
館城とくらべると標準よりやや大き目にあたる。全国的に見ても標準的な土豪館と見てよかろう。
東西両郭が連接し、しかも西郭の堀が東郭に食いこむ形になっていることが注目される。切り合い関係の法則にあてはめれば、西郭の堀の方が東郭より新しいということになる。空堀自体の規模が新しいほど大規模になるという傾向を考慮すれば、一層そのことが確かめられる。
城主の窪城氏は鎌倉後期の東大寺領窪庄の預所の系譜を引く在地土豪である。正応2年(1289)に預所であった頼舜にはじまり、実順・憲順・順英・順弘まで預所請文によってその系譜が判明する(『東大寺文書』)。順弘の子順専以後は、東大寺僧としてではなく、興福寺の衆徒および国人として活躍する。それに伴い荘園所職も預所から下司へ、名字も窪城氏へと変わる。
順尊は筒井と古市の両氏と姻戚関係を結び、二大勢力の間を泳ぎ渡ろうとしたが、結局、本家が古市方、西家が筒井方へと分裂して応仁乱以後の戦乱を戦った。
名字の方角地名は本家に対する屋敷の位置を示すので、窪城西家の屋敷は、前述の窪之庄城の東西両郭のうち西郭に比定することができる。
古市氏と筒井氏の勢力比は、明応6年(1479)までは圧倒的に古市方の優勢、以後一進一退がつづき、永正5年(1508)、古市澄胤敗死後は圧倒的に筒井氏の優勢となる。窪城氏における本家と西家の勢力比もこれに対応すると見てよいから、15世紀は東郭の本家が優勢、16世紀は西郭の西家が優勢となる。
前述の東西両郭の規模の差は、元々同規模のものであったのが、後で西郭が発達してその堀が隣の堀を飲み込んだということだったから、家の勢力交代と一致する。
この交代を時期的にいうと、15世紀の姿から16世紀の姿への変化、ということになる。
つまりこのタイプの
館城においては、15世紀は東郭に見られるような規模であったが、16世紀になると西郭に見られるような規模に発達する、というわけである。
プランの基本は方形館ということでほとんど変化していない。しかし堀と土塁の規模がほぼ二倍になる。
16世紀の戦国時代に全国的に城郭が発達するといわれているが、そのことを明解に対比して見せてくれる事例ということになる。
窪之庄城は、前述のように16世紀には大体筒井方の勢力下の城となった。とくに筒井順慶と松永久秀の対立したころは、筒井方の前線基地として使われたようである。
永禄11年(1568)、上京した織田信長の傘下に入って勢いをもりかえした松永方が、織田軍の支援で筒井方をつぎつぎと打ち破っていく中、10月10日、「窪之庄城」が開城した。これによって筒井軍は東の五ケ谷から
椿尾城、福住方面へ退却した。以後このルートでゲリラ的に出撃・後退を繰り返した。五ヶ谷のロの高樋から丘の陰の道を西進して平野部に出る際が窪之圧である。
丘陵つづきの地形はなおも今市までつづくので、今市城も重要な拠点になるが、少し出すぎるので、窪之庄城がゲリラ作戦の前線基地としては最良の立地になる。
窪之圧の集落は、東・南二辺は明瞭に堀跡が残り、東辺は溝を堀の痕跡と見ることができるので、北だけは丘陵に依存してこれを自然の要害として利用し、他の三辺を人工の堀で防御した環濠集落である。
そしてその要の位置に、東西両方形郭からなる窪之庄城がすわっている。城の南、東西350メートル、南北150メートルの範囲は、地割が集落の他の部分と異なっており、堀で囲まれていた可能性がある。
この部分は一般の百姓でなく、窪城氏の一族・縁者・披官等が集住していたと思われる。すなわち、窪城両家の城、縁者の集住区、一般百姓の集落の3地区が、内外の序列で三重に重なり、全体が環濠で囲まれていた。
古市城ほど明瞭に総構えの形は整っていなかったとはいえ、領主側の城館と豪側の集落が重なって城と城下の原形を形作っていく姿を示しているといえよう。
情報提供:奈良市教育委員会文化財課