積善寺城(しゃくぜんじじょう)は、大阪府貝塚市橋本にあった日本の城(平城)。
概要
積善寺城は、貝塚市の南側にあり、近木川に面した段丘上に位置し、北側には小栗街道(熊野街道)が走り、根来寺とは根来街道を介して、つながっている。推定地として貝塚市立中央病院から近木川を挟んだ対岸の一帯で、江戸時代には橋本村の集落があり、安楽寺付近に本丸があったのではないかという伝承がある。和泉の戦いでは根来衆の主力部隊がいた。
沿革
もとは和泉国の四長者の一人、郡吉長者の仏観音堂であったものを永禄元年(1558年)に根来衆と三好氏との戦いの時に、砦をこの地に築き先陣としたのが最初とされる。
天正5年(1577年)雑賀侵攻の時には積善寺城はみえないが、天正9年(1581年)高野攻めには「城郭取立也」とある。また天正11年(1583年)秀吉の紀州攻めでは、中村一氏を岸和田城に入城させ、雑賀衆、根来衆に備えた。
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この時の戦いの様子は千石堀城の戦い、千石堀城攻防戦も参照。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに豊臣秀吉が出撃した隙を狙って、雑賀衆、根来衆連合軍は、
中村城、沢城、
田中城、積善寺城、
千石堀城を5城を付城として
岸和田城の5町ばかりを隔てて、翌天正13年(1585年)正月始めまで幾度か小規模な戦闘が続いたが、同年1月16日雑賀衆、根来衆連合軍は7つ付城から
岸和田城を攻城、中村一氏隊も反撃している。同年3月18日に雑賀衆、根来衆連合軍は紀伊国より出撃、同年3月21日
岸和田城から豊臣秀吉軍が出軍、戦いとなり
鳥羽城、
中村城、積善寺城は放火や落城した。この時豊臣秀吉軍は、地蔵堂丸山古墳に陣を置き積善寺城と対峙していた。豊臣秀吉は卜半斎了珍を仲介とし畠中城、沢城は開城した。
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この後の戦いの様子は根来・粉河・雑賀炎上及び第二次太田城の戦いも参照。
この戦い後積善寺城は破却され廃城となった。
城郭
城郭に関しては、「東面七拾八間二重堀・西面九拾三間三重堀・南面百弐拾間三重堀、外に横二十五間、長百五十間貯池有、北面百三拾二間三重堀、外に大川有、本丸三拾五間四面云々」(『春生随筆』)とあり、本丸は約53m四方で、周りには濠をめぐらしていた。また同書に秀吉の紀州攻めの配置として、
秀吉の紀州攻め積善寺城の配置 |
配置 |
本丸大将 |
本丸矢倉 |
東矢倉 |
西矢倉 |
北矢倉 |
南矢倉 |
武将名 |
出原右京 |
山田蓮池坊 野原大部 |
知明院 |
長橋正知坊 出田長寿院 山下南ノ坊 |
西蔵院 寿宝院 |
近木忠次郎 熊取寿命院 熊取大納言 |
とあり、5つの櫓にそれぞれの武将が配置され、常詰衆として360兵、増援軍として9140兵が城内にいたと記されている。1843年(天保14年)の『日根郡寺社覚』には安楽寺境内やその一帯が城跡と記されている。
発掘調査
積善寺城の発掘調査として、2003年(平成15年)に2回、2004年(平成16年)に1回実施された。2003年(平成15年)に行われた発掘調査は個人住宅建設に伴うもので、積善寺城の濠と考えられる遺構が発見された。濠は東西に掘られており、幅は6メートル以上、深さは1.8メートルで、U字型に掘り込まれて、石垣は備えていなかった。濠は3層の埋土が確認でき、下層は断続的な水の流れが確認でき、防備目的以外にも排水路との指摘もある。中層は人為的に埋められた層で、埋め立て作業が短期間で行われた。上層は、埋め立てた後に新たに掘削された溝となっている。またこの溝からは大量の瓦や大きな礫などの遺物が出土しており、これらを使用して溝が埋められたと考えられている。この濠は城の南側に設けたと考えられ、下層からは干瓦が出土しているが、籠城戦と関係ある遺物は出土しなかった。また、2004年(平成16年)に行われた発掘調査では、江戸時代の生活排水溝は検出したが、積善寺城と関連する遺構は確認できなかった。理由としては、後世の開発により削り取られている可能性がある。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線「和泉橋本駅」
- 徒歩 約10分
- 車でのアクセス
- 阪神高速4号湾岸線 貝塚出入口 → 大阪府道29号 → 大阪府道64号
- 周辺に駐車場なし
参考文献
- 創史社『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、215、218頁。
- 城郭談話会事務局『図説近畿中世城郭事典』城郭談話会事務局、2004年12月、216-217頁。
- 貝塚市教育委員会『貝塚市の史跡と文化財』改訂版、貝塚市教育委員会、2009年3月、43頁。
- 貝塚市教育委員会「秀吉の紀州攻めと積善寺城跡」『かいづか文化財たより』テンブス18号、貝塚市教育委員会、2004年7月、2-3頁。