歴史
中世文書では千馬山城と称している。近世の地誌によれば城主は用土新左衛門正光(または政光)としている。
新篇武蔵風土記稿では三沢村の項で「正光寺 この寺は用土新左衛門正光の子正憲なるもの父のために創建せし所なり。因って父の実名を以て寺号とせりと云」とあり、秩父風土記や秩父志でも同じ記述をしている。
この城の縄張り(設計)は、用土新左衛門築城と伝えられる寄居町の
花園城並びに長瀞町の
天神山城と軌を一にするところが多い。
とくに竪堀(傾斜面に縦に掘られた堀)があること並びに竪堀と横堀を交錯させて相乗効果をねらっている方式や尾根上に構えた大規模な堀切り(尾根を断つ堀で両端を切り離したもの)等は、三城に共通な手法である。築城も城主も用土新左衛門であることは疑いを入れない。
また城主として三上外記(または刑部)の名も見える。秩父郡誌白鳥村の条に、「
要害山城址は大字下田野にあり。北条氏邦の臣三上外記の居城にして。現に城隍を存す。」とあり、関八州古戦録「鉢形落城事」の中に、
秩父領には、山中の日尾の城に諏訪部遠江守定勝、田野に三上外記・安藤兵庫助、築瀬の後面虎ヶ岡の城に猪股能登守が弟小平太則宗相籠て、大手の方円良田村を堀切柵をふり塀を付たり。根古屋の城には渡辺監物・浅見伊賀守・同左馬介父子是を守れり。
とあり、少くとも天正末期、鉢形落城ごろの城将は、用土氏ではなく三上外記・安藤兵庫助であった。
田野城・
要害山城とも竜ヶ谷城(千馬山城)のことである。この城は大字三沢と大字下田野境いにあり、さらに大字皆野分に小字戦場、大字下田野に小字向戦場がある。
戦場は千馬である。なお、竜谷と要害は天険の地を示す同義と考えられ、新記でも、「リュカイ山 村の北の方にあり。郡中所々にこの唱あり。要害山なるべきを土人唱へを誤るなるべし。」とある。
最近定着している城名は竜ヶ谷城であるが、永禄のころは千馬山城、天正のころは
田野城と呼ばれ、さらに秩父郡誌で
要害山城といわれるのも理由のないことではない。
新篇武蔵風土記稿三沢村の条に、「要害の地なれど今に石壁なども往々に遺りてあり、十坪許の平坦に小祠を置用土が霊を祀ると云。」とあり、秩父志下田野の条に、「竜ケ谷ノ城迹ハ同村ノ戦場ト云所ニアリ。山二登ル事十町余ニシテ池隍、本丸等ノ形ヲノコセリ。」とある。
秩父郡誌でも白鳥村の条に、「現に城隍を存す」として、すべて城に遺構のあることを伝えている。
城の遺構をもつ場所は、下田野・三沢地内では他に見あたらないことからいっても、これらの城の名まえはみな竜ケ谷城の異名と考えられる。
城跡
概況、大字下田野と三沢地内にまたがる標高330メートルの山塊に設けられた城である。三沢川に面した西方と、田野沢川に面した北方は急坂険阻である。
城の遺構は、山頂より東南方向に展開される。山頂には用土新左衛門を祭る石宮があり、竜ヶ谷稲荷・竜神を祭る小社がある。
三沢川に沿って、秩父と北武蔵・鉢形を結ぶ古道(曾根坂峠より釜伏峠へ通ずる道と、下田野口から釜伏峠へ通ずる道)を眼下にし、西方荒川を隔てて御嶽筋と称される児玉・上野への道を望むことができる。
秩父郡北部の皆野・長瀞町を一望にし、相対する
天神山城・
高松城・城峰等をとおして秩父の諸城を掌握することのできるこの城は、秩父を経略しようとする後北条氏にとって、きわめて重要な価値をもっていた。
麓の郭
西の尾根道の登り口に麓の郭(平坦な場所)がある。面積約150平方メートルの平地である。尾根の岩盤を約9メートル穿ち、削平した西方に高さ1~2メートル、長さ約15メートルの石垣を築く。
平石の平積みで、この城の所々に見られるものと同一の手法である。南方に幅約3メートルの虎口(入口)も見られる。
伝承では茶坊主屋敷と呼ぶが、この呼び名は近世的な発想である。兵農未分離であった天文・永禄ごろの山城に、茶坊主の職制があるはずはない。後世の呼び名であろう。
この郭から肩の郭・物見郭、その延長線にある主郭が見とおせる。これらの城の中心部の見とせる麓の場所はここより外にはない。
山城では麓に郭をおいて、城中との連絡・兵員の交替・警備等の基地にしたことが考えられる。
西の尾根道
麓の郭から尾根道を北に登ると、数分にして左右に小さな石垣をおいた第一の堀切りに達する。
土橋(堀切りの中央を通路にしたもの)の左右の堀とも、長さ約10メートル、幅3メートルである。その上に左右に削平した小さな郭を設け、右の郭は右方へ長く延びる。ついで約60平方メートルの門跡の郭となる。やはり右方に湾曲し、延長線は長さ8メートル、幅3メートルの堀となる。
第二の堀切りは片土橋(道の片方に堀切りをもつ)左方の堀である。堀の上端に石垣をもつ。つづいて第三の堀切りとなる。土橋左方は長さ8メートル、右方は10メートルの土居(土を盛り上げた土手)を伴う湾曲した堀とな
り、その先端は約40平方メートルの矩形の郭となる。この西尾根の道では最も大きな堀である。
西尾根の遺構は、堀切りの上に郭を構えそれらを右へ巻き上げる方式を重ねながら、やがて肩の郭へ続いていく。右へ巻く堀と郭は、複雑に相互に通路となって緊密に連絡し、西尾根の東下にある水の手(水口)を守る形を作っている。
肩の郭は約100平方メートル、不規則に削平した跡が認められる。ここから西方へ4メートルばかりの物見櫓の郭が延びる。途中土橋の両端に長さ7メートルばかりの堀切りがある。この郭からは、三沢・皆野が一望できる。肩の郭から屈曲しながら北へ登ると、やがて城の中心部へ出る。
東の道
若荷沢口から東の道をたどると、土橋の左右に土居を伴った堀切りに着く。左方の堀が長さ12メートル、右方は16メートルで、ともに2メートル50幅である。ここが東の道の虎口である。
右堀の先は、城中で最長(約40メートル)の竪堀に連絡する。
つづいて道の左方に40平方メートルばかりの郭がある。つぎに右方に土居を伴った直角に折れ曲がった深い堀がある。竪堀につづくこの直角な堀の手法も、用土式築城の特徴であろうか。
やがて、道の左に土居を伴う第三の堀切りとなる。片土橋で長さ21メートル、その先は二の郭から下ろされた長さ38メートルの竪堀につらなる。
虎口よりこの堀切りまでの東の道も、西尾根の道と同じく堅固そのものである。
この堀切りの右端の石垣に沿う道を登ると細長い郭に出る。道の左は約50平方メートル、左は100平方メートル、幅は左右とも3~4メートルの、犬走り(幅1メートルぐらいの通路)に似た細長い郭である。この郭のほぼ中央部から、東の道に沿って40メートルの竪堀を下ろしているのである。
またこの竪堀の東に並行して11メートルの竪堀があり、その竪堀の先は、長さ12メートルの横堀につながりこの城の東端を固めている。
城の中心
西尾根の道の肩の郭から城の中心部に入る。頂上の50~60平方メートルの2つの円形の郭を主郭と考える。この主郭から、西北の尾根道がつづく。険阻なせまい尾根上に小さな堀切りと郭が構えられ、下田野愛宕山につらなる。この城の搦手(裏口)であろうか。
主郭の東の長さ20メートル幅3メートルの堀切りを隔てて、二の郭を構える。ここは不整形な削平の見られる郭であるが、ここから主郭・二の郭を堅固にするための長さ10メートルと38メートルの2本の竪堀を下ろし、さらに竪堀の上部から当城第一の規模をもつ横堀が東へ延びている。長さ43メートルで途中に折り(堀が直角に折れ曲がること)を持ち、高い土居を伴ったものである。
この土居の下方に約90平方メートル、矩形の袖郭(堀を隔てた郭をいう)が広がっている。
主郭より東北に延びた長い尾根は、堀切りによって幾重にも仕切られている。とくに3つめの堀が最も大規模である。二条の大堀切りである。どちらも長さ30メートル余の堂々とした、この城の東尾根を断ち切るにふさわしい堀切りである。
参考文献
・「皆野町誌 通史編」
情報提供:皆野町教育委員会