鎌原城(かんばらじょう)は、群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原にある山城。
歴史
築城年代は定かではないが、南北朝時代に鎌原氏が築いたと伝わる。
鎌原氏は、清和天皇の第四皇子貞保親王を祖とする滋野源氏の一族だ。平安時代末期、滋野源氏の流れを汲む海野小太郎幸明の次男・幸房が信州の小県から吾妻郡の三原荘に移り住んで下屋氏と名乗り、下屋将監と称した。その孫の幸兼が浅間山麓の鎌原郷を本拠とし、鎌原姓を名乗ったのが始まりとされる。勢力を確実にした鎌原氏が、応永4年(1397)に鎌原城を築いたと伝えられている。
山内上杉氏の上杉顕定が関東管領になると鎌原氏もその勢力に組み込まれたが、天文20年(1551)に
平井城が北条氏に奪取されると、上杉憲政は越後へ退去。すると、上野国内では領主たちにより所領の奪い合いが起こった。
東吾妻地域を支配していた斎藤憲広が西吾妻地域へ侵略すると、鎌原城主の鎌原幸重はその支配下に入ったが、反攻を狙って甲斐の武田信玄を頼った。海野小太郎幸明の長男・幸家は武田家臣である真田氏の祖であり、鎌原氏と真田氏は同じ滋野源氏の一族である。この縁を理由に、信玄に通じたようだ。西上州への侵攻を目指していた信玄は、永禄3年(1560)に鎌原氏を受け入れている。
信玄の後ろ盾を得た鎌原氏に対し、斎藤憲広は
羽根尾城の羽尾入道らを丸め込み、鎌原城を急襲させた。和議休戦の後、永禄4年(1561)に信玄の命で武田軍が斎藤氏の本拠に攻め入ると、斎藤憲広は戦うことなく降伏した。しかしその後、斎藤憲広が鎌原城に攻め寄せ、攻防の末に鎌原幸重は降伏した。
信玄によって領地境界が定められたが事は収まらず、羽尾入道が鎌原領に相伝の地が組み込まれることを不服としたことを機に、永禄5年(1562)、鎌原氏一門は鎌原城から信濃の佐久へ退去した。
鎌原城には羽尾入道が入ったが、永禄6年(1563)に鎌原氏が奪還。その後、斎藤氏が真田幸綱に敗れ越後へ逃れると、吾妻郡は武田氏の勢力範囲となり、真田幸綱が支配した。鎌原幸重は真田幸綱に従い、鎌原氏は武田氏滅亡後も真田氏の家臣として仕えている。その後、鎌原城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城になり破却されたと伝わる。
遺構
鎌原村落を東に見下ろす、浅間山噴火の火砕流で形成された火砕流台地の尾根先端部に築かれている。標高は900m前後だ。北側と西側には吾妻川右岸の断崖、東側には「うしろの沢」と呼ばれる沢が南から北へ流れている。信濃と上野北部とを結ぶ街道が吾妻川沿いに通る、交通の要所だった。
城は南北約400m×東西約150mと南北に長く、南から北へと傾斜している。南から三の丸、二の丸、本丸、笹曲輪を置き、二の丸の北東下と本丸の東側に東曲輪が配置されている。本丸から三の丸にかけては、各曲輪間を堀切で分断。現在は、本丸と二の丸の間の堀切、三の丸南側の堀切が確認できる。本丸北側の笹曲輪との間にも堀切がある。
発掘調査から、16世紀代の土鍋やかわらけが出土した。その特徴からは、信濃や
岩櫃城との関係がうかがえる。鎌原城が、信濃から鳥居峠を越えて吾妻地域へと通じる吾妻川沿いの交易・交流ルートにあるためだろう。武田氏滅亡後に真田氏との関係が深かったことの証ともいえそうだ。
交通
・上信越自動車道小諸ICから車で約1時間
参考文献
・『鎌原城址2(嬬恋村文化財調査報告書 第9集)』嬬恋村教育委員会、2018年。
・『日本城郭大系 第4巻 茨城・栃木・群馬』新人物往来社、1979年。
文:萩原さちこ