信玄の遺言は守るべきだった?(2014/12/26)
甲斐国(現在の山梨県)の山並み
父信玄の遺言に背き、信玄死後1年を経ずして他国へ出兵した武田勝頼。後世、武田家を疲弊させたとも言われるこの行動、あなたの評価は?
[投票実施期間]2014年12月26日~2015年01月12日
1.領土を拡げることが大名の使命と考えれば当然の行為。 |
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2.攻撃は最大の防御で、国を守るための行動だった。 |
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3.家臣団をまとめるためには外敵を求めるしかなかった。 |
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4.遺言通り守りを固め、情勢の変化を見極めるべきだった。 |
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5.度重なる外征で国を疲弊させ、大いに国力を低下させた。 |
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6.その他 |
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「ニッポン城めぐり」利用者のコメント
肥前守にゃん太(6を選択)
親父の背中を越えたくて、でも無理だった息子。今も昔も変わらない話。でも遺言を破る前に高坂さん家にある、親父のアノ遺文を破るべきだったのではないかと思う。
【D】布施伊賀守国重(3を選択)
自分が出来る所を見せて、家臣の信頼をえないとやっていけなかったと思います。
黒田治部卿走兵衛(4を選択)
偉大な父を持つ子の気持ち、分かるよ〜な、気もする。
信玄が家督を譲るほどの男ですから、自分もやれるところを早く見せたかったんですよね、きっと(^_^;)
摂政後柏原帝(6を選択)
いつかは滅びたと思いますよ。
中務卿一之介(4を選択)
既に同じコメントがされていると思いますが……
「動かざること山の如し」
であるべきだったかと。
大宰大弐のふ(6を選択)
信長包囲網を再構築するためにも武田の実力を示す示威行動は必要だったと思う。諏訪四郎勝頼の立場的に。
柴崎権大納言幸助(5を選択)
信玄が後継者育成に失敗したことで、そもそも別家を継いでいた勝頼には、重荷でしかなかったはず。戦いに才能があったのだとしても、国の疲弊を招くだけだったと思います。
大久保遠江守常源(4を選択)
なかなか出来ないけどねぇ。
城北大学助教授(6を選択)
信長などに攻められる前に国力をあげるべきで、勝頼は正しかったと思う。でも、家臣は尊敬する信玄の遺言を無視する勝頼にはついていけず彼らの心は勝頼から離れていった。そもそも、遺言を作ったこと自体がミス。
真田坂田守(3を選択)
当初の結果は良しであった。
ただ、組織維持に必要な程度にとどめておくべきであったとは思います。
優秀な家臣団を生かせなかったのが残念ですね。
源山城守@ポンコ2…(6を選択)
己の能力の過信と家臣の忠誠に対する盲信からくる天下穫りへの野望が複合したのでは。
アンパンマン(4を選択)
攻める事も必要だったとは思うが、ちょっとやり過ぎた。でも勝頼では巧妙な駆け引きなんて出来なかっただろうから、延命は出来ても結局一緒かな。
内藤左衛門尉隼人(6を選択)
3と5の2つかなと。
アメリカの状況と似ている部分も多いかと。
違うのは家臣と国民世論くらい
しゅう内蔵助(4を選択)
無茶は善くない
宮内卿あさよし(3を選択)
信玄でさえなんとか家臣団を纏められていたのは外敵を作ることであって、勝頼は当然父親の真似をしただけだと思います。
ひで(6を選択)
偉大な父に負けない器量を示す為には、戦に勝って、領土を拡げるのが一番だから
方縣宮内卿景暎(4を選択)
選択肢5の存在意義は?
前田下総守利益(1を選択)
その当時、鉄砲以外で最強の戦法であった騎馬戦術を持っていた武田信玄が死亡した直後からそのまま京に上洛していれば天下統一は早かったかもしれない。
ミーです越後守(4を選択)
遺言は、守ったほうがいいと思います。でも、後継ぎにその能力があったかはなはだ疑問ですね~。
聡明な後継者ならば、滅びずにすんだのでは?
伊勢守ノレパン三世(4を選択)
遺言を守り、優れた家臣団を活用すべきだった。
かいじ備前守(2を選択)
その程度の武将であったということ。その程度であれば守りを固めていても同じ結果だったと思う。ならば攻めに出た心意気を買いたい!
摂津守恭太郎(6を選択)
勝頼は信長の本拠岐阜にも迫り、信玄も落とせなかった高天神城を落とす等、過去最大版図を築く。信玄の死など伏せようにも伏せれぬはずで、信玄の死後、勝頼は短期間で武田家を一気にまとめあげたのではないか?と。
摂津守茶太郎&猫友(2を選択)
長篠の戦後、家中で再度議論あり、織田&徳川と和睦すればいずれ家臣に成り下がる。何もしなければ西国に勢力拡大した織田と対峙する事になる。
刑部少輔冬将軍(4を選択)
守りだけが大事ではないと思いますが、家臣団をまとめる為に先代の遺言を守る姿勢は必要だったのではないでしょうか。俺が俺が。。。で誰もついてきてないし。
のんたろう雅楽頭(4を選択)
信玄が当主に勝頼さんを選ばなかったのには理由があったからだと思います
【無】万年同心武蔵守三四六(3を選択)
勝頼が信勝が成人するまでの繋ぎ役という遺言自体、信玄公らしくない、どうかしてると思います。
勝頼も、正式な後継者であれば、あそこまで無理をしなかったのではないかと、気の毒に思います。
酒巻右衛門督靱負(4を選択)
国力を蓄えて、家臣団を掌握し、周囲との同盟など、まず足元を固めてからでも遅くは無かったかも。
明石右大臣則実(2を選択)
信長の勢力拡大に対しては、比例して勢力を伸ばさねば対抗できない。外交政策の失敗が武田家の衰亡を招いただけであって、信玄存命中も外征は絶えず行っていたはず。
築木原弾正少弼(3を選択)
先代が偉大であった故に辛かったでしょうね
井伊兵部少輔直政(4を選択)
武田家が一つにまとまらない中での勝頼の行動は家臣団を疲弊と不信感で満たしてしまったのではないだろうか。
那賀大蔵丞景業(3を選択)
どうしても偉大な父と比べられちゃうよねぇ。家臣を結束させるのも楽じゃないっすよ。
【麒麟】大宰帥しらいとはま(6を選択)
他国への出兵は…戦国大名の当主としては当然必要な行動と考えるが、【長篠の戦い】は決戦を避け一旦引き上げた後自国内で地の利を得て決戦すべきだった!!
津軽宮内大輔藤原信建朝臣(3を選択)
勝頼はよくやったと思いますが、敵対する相手が悪過ぎたのだと思います。
鎌倉木工頭鬼武丸(3を選択)
信玄が偉大すぎた。
兵庫允もりあき(4を選択)
勝頼の立場なら3なんでしょうが
喪中って事も考えれば
遺言を守っているのが良いかと。
謙信も喪中は侵攻してこないだろうし
外交の武器として組み込んでも
良かったかな。
勘解由長官殿様(6を選択)
信玄の死が漏れた以上静観は無意味。武田動かずの確信の元、長篠城が奪われて浅井浅倉と伊勢長島が攻め滅ぼされ将軍義昭も追放され信長包囲網は完全崩壊した。武田が攻勢に出ない限り彼らと結局は同じ運命である
田塚大膳亮康弘(1を選択)
武田の当主として信玄以来の重臣を屈服させるには領土を広げて器量を示すしかなかったのかもしれない
大松弾正忠(6を選択)
長篠での敗退が全てか。
我こそは眞田左衛門佐幸村(6を選択)
身の丈を知れってことかなぁ;^_^A
庄内尾張守矢田(4を選択)
結果論からいえば、遺言を守って国を固めるのが良かった。
みのみの美濃守@流浪人(5を選択)
度重なる侵略で、国力低下や家臣団の統率が不完全のまま…が、大きな原因だと思う。信玄に「ワシ以上の戦上手」と言われたが為に、天狗になってしまった結果とも取れる。
安房守のぶくま(6を選択)
普通に考えたら4番。でも勝頼の父への気持ちや重家臣達の心を掴む為には仕方なかったのかも。で結局、勝頼の幼さからの【先見性の無い自爆】だと思います。
☆烏丸権中納言☆(4を選択)
勝頼は戦上手ではあったけど、家臣団に対する信頼度が足りなかった。信玄の遺言時間
古楽侍従広家(5を選択)
敵の見極めは必要だった。
黒猫くん上総介(2を選択)
三年喪を秘せとの遺言も一年の時点で周囲にはバレバレだった訳で専守防衛が許される状況でもなかった。勝頼の決断は2も結果が伴わなかった。
迎撃ビクトリー大宰少弐狭間(6を選択)
偉大なお父さんの跡継ぎとして認められる為に、ある程度やむを得なかったのかとも思います。
フー甲斐守(4を選択)
信玄が絶対であった当時の武田家臣団をまとめるには、遺言を守る姿勢を示し、家臣団から外征の意見が多数を占めるのを待つべきだった。
龍胆振守上海(5を選択)
内政面とのバランスが悪かった!
北左衛門佐信愛(2を選択)
仕方なかったかなぁ。
左近衛少将 rstones(1を選択)
出兵時点で信玄の死は他国にバレていた。更には信長が着々と勢力拡大して、武田を脅かす様な状況で、頑なに遺言を守ってもあまり意味は無いので、出兵自体は○と思う。
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