境田城
境田城([大口城 周辺城郭])
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境田城の口コミ情報
2025年12月01日 龍馬備中守【】
鹿児島県薩摩郡さつま町の求名にある【境田城】♪南に境田川が流れ、北には間道として、菱刈街道(球磨街道)が走ります。この道は、天正15年(1587年)九州征伐の際に、豊臣秀吉が川内から大口に通過した道でもあります。この菱刈街道は、境田を抜け人吉へ。更には肥後へと通じる道であります。
この境田という名ですが、その場所が何らかの『境』に位置している事に由来する事が一般的ですね。伊佐市との町境にあるため、この『境』が名前の由来なのかなぁ〜?推測ではありますが、軍事の境目、権力の境目、土地の境目などの意味合いなのでしょうね。正に境田城が立地する場所は、伊佐市との境となっています。
境田城ですが、築城年は不明です。四国は伊予国の守護一族である河野信盛は、明徳3年(1392年)島津氏に請われ、渋谷鶴田氏支援の為に、薩摩国へ下向し境田城に在番しています。当時は渋谷鶴田氏の支配下に置かれていたと思われますが、何しろ詳細が分からない事が多いのも事実な、薩摩河野氏です。
応永2年(1401年)第三次鶴田合戦に敗戦しています。渋谷五族の一族である鶴田氏は、独り一族を離れ島津元久と手を結んだ事により、他の渋谷四族(東郷氏・祁答院氏・入来院氏・高城氏)がそれを憎み、鶴田氏討伐の軍を起こしています。所謂一族同士の内乱です。
この戦い後に、父と次男は求名(現・さつま町)に残り、狩宿の地に居住しました。一方、長男の河野信俊(後の通正)は日州真幸院吉田(現えびの市)へ移住し、北原氏の家臣として仕えています。長男の河野伊予守通正は移住後に、河野氏を改め、境田氏を名乗っています。建山の地に天満社を立て、吉田の鎮守としています。この天満社はその後、通正の孫・境田長友が再興し、享禄4年に長友の孫・境田満元が現社地へ遷座したと伝わります。藩主・島津氏より代々崇拝されていて、藩主の社参や和歌の奉納があったなど繁栄を見せ、慶長19年には島津義弘より神領20石が寄進されています。
境田城は、一応この鶴田合戦の後に廃城とされていますが、恐らく戦国時代にも使われていたでしょう。戦国時代は祁答院領と思われ、その後、島津領へとなっている事と、その縄張り図を見ると、明らかに手の込んだものとなっています。堀の深さや連続する堀切は、間違いなく、戦国時代にも使用した事でしょう。東西に伸びた尾根を、城郭として加工しています。大きくは、5つの郭から構成され、主郭、西ノ丸、スヌケダ丸、馬乗馬場、シトザキとなっています。それぞれを堀切で遮断して、郭を島状にし、寄手を警戒した造りにしています。
因みに、河野氏は最終的には、島津氏家臣となっていますが、境田氏に関しては不明でありました。









