加瀬田城

加瀬田城([西原城  周辺城郭])

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加瀬田城の口コミ情報

2025年10月11日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


鹿児島県曾於郡の輝北町平房にある【加瀬田城】♪別名を高雲加瀬田城、または平房城とも呼びます。加瀬田は、城のあった場所の小字と云われています。もう1つの呼び名、平房は、百引郷平房村という集落名からきています。平房という地名は、今日にも残っています。加瀬田城は、輝北高原のど真ん中に立地します。2万2千年前に大噴火を起こし、海に陥没した姶良カルデラ。その噴出した火山灰層が100m以上も堆積した所を、川が浸触し始めた事で、複雑な現在の地形に至っています。
百引は、中世には百疋とも記されていますが、この地名はアイヌ語の高原・低地を意味する『モヒツ』から出たとする説がありますが、何故にアイヌ語かは謎であります。

加瀬田城は、平房川の形成した帯状の狭い水田地帯に突出した、台地端を利用しています。東面を流れる平房川が天然の水濠となり、北面は深谷となり、南西面は小川が流れ、平房川と合流します。まさに、地形を巧みに利用した城郭なのであります。
台地突端の、比高30mの平坦地が本丸となります。ここは高低2段となっていて、西端には分厚めの土塁を構えて、櫓があったのではないか?と連想させます。眼下には、深い堀切が刻まれます。この土塁上には、加瀬田城の守護神の三宝荒神祠が残っています。本丸の西には、深い空堀を隔てて副郭があり、ここにも西端に土塁が築かれています。更に空堀によって三郭が造られ、西端は北面の谷と結ぶ大きな空堀で城域となっています。

建武3年(1336年)肝付兼重は、錦旗を奉じて三俣高城に挙兵すると、肝付兼重の兄、肝付兼尚の長子・肝付彦太郎兼隆は、20歳の青年武将でしたが、叔父に応じて加瀬田城に拠っています。足利尊氏に尻を叩かれ、島津貞久が薩摩の大軍を率い、加瀬田城攻撃を行いました。島津貞久は加瀬田城の対岸の高地の陣ヶ平に本陣を置き、城攻めを行っています。大手口からは、島津左京進・伊作宗久・大隅助三郎忠国・山田忠能・杉三郎・杉弥三郎らが攻めかかりました。搦手口からは、島津六郎・樺山久高を首将に、中条杢右衛門・野上田時盛・禰寝清種・延時忠種・平田小次郎・郡山弥五郎・宮里九郎・執印三郎らが攻め込んでいます。更には、高山からの援軍を断つ為に、莫禰円也の別働隊を塚崎に向かわせ、戦わせています。
こうして、肝付彦太郎兼隆は良く防戦し、籠城し、1ヶ月粘ります。寄手は、南面の水堀を破壊し攻め立てます。城中も守兵の戦死や負傷する者も多く出てしまい、遂には落城。
城将であった肝付彦太郎兼隆はこの時、討死と伝えられていますが、実は脱出しています。
島津貞久は凱歌をあげ、野上田・禰寝氏を守将に置き、引き揚げています。その後、肝付彦太郎兼隆は楡井頼仲と共に、加瀬田城を奪回し、楡井頼仲の弟・楡井頼重が守城しています。

観応2年(1351年)畠山直顕は、再び禰寝清種・禰寝清成に命じて攻めさせ、自らも兵を督励しました。約4ヶ月の攻防戦は、いかに加瀬田城が堅城だったかを物語ります。

文明年間(1469年〜1487年頃)志布志の新納忠武は島津久豊に反し、平房を陥れ、一族の新納左馬助と宮里道随を守将にしました。平房方面は、新納領として支配を受けたと考えられます。

天文年間(1532年〜1555年頃)肝付兼続の時、百引白岩城、本城、小城にあった島津一族の猪鹿倉を追放し、加瀬田城を新納氏から奪回します。久し振りに旧領を確保した肝付氏ですが、島津氏に再び攻められ、その後は家臣として、存続していきます。天正6年(1578年)の頃、加瀬田城は島津氏に帰し、島津右馬・比志島伊予が在番として置かれています。

2023年11月27日 ᴿᴱᴰ 副将軍


巨大な堀でブツ切りにされた凄まじい土木量の肝付氏の支城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。歴史は古く鎌倉時代末期に肝付氏によって築かれたと伝わります。
肝付氏は、ヤマト王権の中枢にあった伴氏(大伴氏)の系譜であり、969年に伴兼行が薩摩掾に任命されて下向し、子の伴兼俊が肝付氏を称して土着したのが始まりとされます。高山城を本拠地とし、大隈半島を支配した有力土豪で、隣国薩摩の鎌倉御家人をルーツに持つ島津氏とは対立し続けました。
1336年、8代当主の肝付兼重は南朝方に付き、加瀬田城の肝付兼隆は籠城し、北朝方の島津貞久と1ヶ月に渡り争ったとされます。三股城からの援軍を待つも、援軍は北朝方に阻まれたため落城したとされます。
1531年には信濃源氏の系譜で南朝方の楡井頼仲が領有しており、加瀬田城には弟の楡井頼重が入城し、北朝方から派遣された畠山直顕と戦うも敗れたとされます。
天文年間(1532年〜1555年)になると16代当主の肝付兼続は加瀬田城を奪回して旧領を回復したとされます。
1578年に19代当主の肝付兼護が島津氏に臣従し、事実上で肝付氏嫡流が滅亡すると、加瀬田城のその後の動勢は分かっていませんが、新納氏などが在番していた様です。

見所
堂篭側西岸、平房集落北側の標高200mほどの丘陵上に築かれています。
東西に伸びた尾根を巨大な二条の堀で分割し、大きく東の郭群と西の郭群で分けられ、それぞれが巨大な三段の郭群で構成されています。
東側ピークが主郭とされ、かなり広い削平地に背後には大土塁で、土塁上も物見とされる小郭が配されています。
要所には桝形や腰郭が配され、登城路も至るところに横矢が掛かっています。
圧巻なのは郭群を隔てる堀です。元々、谷地形があったとしても凄まじい土木量です。

行き方は、城域南側に登城口がありいきなり巨大な竪堀が現れます。東郭群は整備が行き届いており比高は約50mです。
西郭群は未整備で下草に覆われており、東郭群と西郭群を隔てる堀は深すぎるので一度降りてから西郭群に登り返すことになります。
駐車場はありませんが、周辺にスペースはあります。

インパクトのある鳥瞰図を見て伺いましたが、想像を絶する大規模なものがまさに鳥瞰図通りでした。数多の訪城をしてきた中でも強烈な印象を受けた次第です。百聞は一見にしかず、是非ご訪城をくださいませ。

写真
①東郭群と西郭群を隔てる巨大竪堀
②東郭群へと続く切り通し
③④⑤登城路は至るところに腰郭が配され横矢が掛かる
⑥二郭と主郭切岸
⑦かなり広い主郭は背後に土塁が聳える
⑧主郭背後の土塁上

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