百次城

百次城([平佐城  周辺城郭])

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百次城の口コミ情報

2023年02月26日 龍馬備中守【】


鹿児島県の薩摩川内市にある【百次城】♪別名を上野城、岩田ヶ城とも呼びます♪百次川と平佐川が合流する平野部、南東部側で南北に細長い舌状台地上に城郭は立地します♪現在は、上野、和田と2つの集落が往時の城域だと思われます♪

この百次城は鎌倉時代の末頃に上野氏によって築かれたと云われています☆この頃は上野城と呼ばれていました☆上野氏は、薩摩郡司である薩摩太郎忠友の弟・薩摩忠宗を祖とし、後に上野姓を名乗りました♪南北朝時代の建武4年、市来合戦では島津氏に従い上野良国が出陣しています☆

百次という地名は古くは戦国期より出てきて薩摩国薩摩郡の内でした♪天文5年(1536年)島津勝久から入来院重聡への宛行状に『薩摩国千台郡之内百次城所領之事』とあるのが初見であると考えられています♪

その後、上野氏は没落していく訳ですが、続いてこのエリアを統治した島津総州家もまた衰退☆応永年間以後は入来院氏の所領となります☆戦国時代になると大永6年(1526年)に薩州家・島津実久がこの地を占拠し家臣・山崎成智に守備させています☆

その後も入来院氏(入来重聡)に何度も攻撃を受けていて天文8年(1537年)遂に陥落し再び入来院氏が占領☆この頃呼ばれていた岩田ヶ城は百次城と呼称される様になります☆元亀元年に入来院氏は百次と共に平佐、高江、宮里、天辰、碇山の領を島津氏に献納しています☆

城郭の南側には上野氏関係石塔群、宝塔・宝篋印塔など残っています☆北に大手、南に搦手、南北に走る道路は元空堀です☆これと東西に走る二条の空堀によって四郭に分かれていた様です☆更に百次城時代の元亀元年(1570年)冠嶽で島津家久と戦って討ち死にした入来院淡路守と善応寺の僧古月の供養塔が残っていました☆

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