藺牟田城(弦掛城)

藺牟田城(弦掛城)([清色城  周辺城郭])

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藺牟田城(弦掛城)の口コミ情報

2026年09月26日 龍馬太閤【沼田乃】


鹿児島県薩摩川内市の祁答院町藺牟田にある、【藺牟田城】馬蹄状に築かれた藺牟田城の対岸、シラス台地には出丸の西ノ城があり、その城域は広大であります♪城郭の南麓を、浦川内の小谷川が西に流れます♪この『藺牟田』という地名は、藺牟田池の沼地部分に藺草が多く生えていた事に由来しています♪どの文献にも築城の記録は見当たりませんが、平安末期の頃の大前氏の構築が始まりとされています♪

祁答院渋谷氏の初代・吉岡重安が入部した祁答院地方は、平安末期から大前氏が郡司として存在していました♪大前氏は醍醐天皇の後裔と言われ、一族で祁答院地方に勢力を有していたようです♪祁答院渋谷氏と大前氏の抗争を記した記録は見つかりませんでしたが、渋谷氏はおそらく、大前氏と対抗しながら、祁答院地方の支配を固めていったものと思われます♪

藺牟田という地名は、室町期より見え、薩摩国祁答院の内でありました♪
祁答院氏系図は各種伝わっていますが、その代数は十二代、十三代、十六代と一様ではありません♪人名も系図によって微妙に違い、不明な点が多いです…。。

祁答院記には『渋谷河内守延重之男重道当村領主となり、代々在城す。河内権守重持代文明十六年二月廿日、守護忠昌に退治され、城衆班目右京之進、蓑毛五郎右衛門戦死、此外藺牟田の手切拾三十五人』とあります♪(※渋谷河内守延重の子である重道が、この村の領主となり、代々ここに居城した。河内守重持の代、文明16年(1484年2月20日)に、薩摩守護・島津忠昌によって討伐され、城衆の班目右京之進、蓑毛五郎右衛門は戦死した。この他に藺牟田の手の者三十五人が討ち取られた。)
島津忠昌が藺牟田城を攻めた事については、『三国名勝図会』にも記録が残っています。

また『宮之城記』には『藺牟田城を持初めの人は河内守重基なり、元弘建武頃存生』とあり、藺牟田城を最初に持った人物は河内守重基であり、重基は、元弘・建武の頃(南北朝初期)に存命であったとあります。人名は違えど、藺牟田城は紛れも無く渋谷一族の城郭であったのでしょう♪

薩摩国内は、島津氏と渋谷氏が激しく抗争していて、上記の文献の通りです。島津忠昌によって遣わされた帖佐領主の島津忠廉が攻め、藺牟田城は落城し、その後に藺牟田氏が断絶したとされます。

主郭の標高は191m程で、北側には削り残した大土塁、北面直下には大堀切を構えます。更に北側の尾根には、堀切が幾つか残ります。主郭より南西側には小高い段があり、郭を形成します。その南には広い階段状地形があり、堀底道が続きます。これが大手口と思われます。城郭の左右は、いずれも断崖となっていました。また、出丸と思われる西ノ城には連続堀切と、薩摩には珍しい畝状竪堀群が残っていました。(※西ノ城の口コミは次にします。出丸といえど、もはや通常の城郭クラスです。)

近世江戸期に入ると、藺牟田は薩摩国伊佐郡の内となり、樺山氏(大元は島津一族です)の私領として統治されました♪樺山氏は領主仮屋を藺牟田小学校の位置に置きました♪また、薩摩藩の外城制度においては、単独で藺牟田郷を構成しています♪村高は天保郷帳では1118石余、旧高旧領では1696石余でありました♪

あまり有名なお城では無いですが、めちゃくちゃ良かったです♪オススメの1城となります♪

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