古麓城

古麓城([八代城  周辺城郭])

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古麓城の口コミ情報

2025年11月18日 龍馬備中守【】


熊本県八代市の古麓町にある【古麓城】♪中世、八代の中心を担った古麓城。古麓という名前は、中世八代城の別称であり、その後、近世八代城は今ありし場所に居を移して、現在平城として、素晴らしい石垣を残しています。この様に、交易、政治、軍事、文化と様々な理由から、八代城は場所を転々と移しています。この古麓城から始まり、麦島城、で現在の八代城となっていて、今回は古麓城(中世八代城)の話となります。

古麓城の北西側は八代平野が広がり、球磨川が八代海に流れ出します。眺望も良く、宇土半島や天草までもが見通せる、絶好の場所に城郭は立地しています。八代は、平野を西流する球磨川と、その入江に存在する中世以来の良港・徳淵の津があり、肥後南部の河川交通・交易の拠点でありました。更に、この地は相良氏の領国であり、薩摩へ至る陸路の要衝でもあった為に、非常に重要な場所なのであります。そのため、中世より八代では交易の利を巡り度々、争いが起こっています。古麓城は、飯盛山(標高70m)丸山(標高143m)八町岳(標高376m)鞍掛山(標高140m)鷹峰山(標高184m)古麓山(新城、標高180m)と山頂および尾根筋状に点在する山城群の総称が、この古麓城なのであります。

古麓の地名については地名については、南北朝期に征西将軍宮が拠ったところから府本と称したとする説もありますが、八丁山の山麓の意と云われます。南北朝期から戦国期にかけて名和氏→相良氏の居城であった麓城が置かれますが、天正16年(1588年)に小西行長の家臣・小西美作守行重が麓城を廃していて、新たに麦島城(八代城)を築城しています。これにより、麓城は古麓城と呼ばれる様になっています。

さかのぼり、八代日記には文亀3年(1503年)『於麓近(進カ)陣也』とあり、相良氏は名和氏と合戦し、翌年には名和氏を八代から追い出しています。また八代日記には『長唯様守山ヨリ麓のことく御帰宅』とあり、相良氏はこの地に鷹峰城も構え、八代の支配にあたっています。
麓は城下町として栄え、永禄8年(1565年)『上津浦殿、ふもとにニ御上候、御小宿斗屋也』と見え、斗屋という商家の存在が窺える他、相良氏家臣の屋敷が並び八代の中心を担っています。

古麓城は歴代城主として名和氏→相良氏→島津氏と軍事情勢の変化に伴い、変わる変わる領主が交代しています。名和氏時代に築かれたと考えられている伝・飯盛城、相良氏時代に築城・拡張されたと考えられている新城跡・鷹峰城跡・丸山城跡、鞍掛城跡が点在していて、その城域は、また広大です。

古麓城の詳細な築城時期は不明ですが、建武元年(1334年)後醍醐天皇から名和義高が八代荘の地頭職を賜り、翌、建武2年に代官として内河義貞を派遣しています。古麓城の初見は、阿蘇文書によるもので正平3年(1348年)であり、代官の派遣後に築城されたとされます。
肥前国武雄神社の『武雄神社文書』には、明徳2年(1391年)北朝方の今川了俊が古麓城を攻撃し、南朝方の名和顕興を降伏させたとあります。文明15年(1483年)名和顕忠が領国の一部を相良氏に割譲しますが、相良氏の薩摩侵攻中に、名和氏が武力で奪回するも、直ぐに相良為続が古麓城を落城させ、八代は相良氏の所領となっています。明応8年(1499年)一度、名和氏が八代に復帰するも、文亀元年(1501年)再び、相良長毎が八代を攻略した事で、名和氏は中世宇土城に移り、以降は相良氏の領する地となっています。相良氏が記した八代日記には、天文3年(1534年)鷹峰城の築城が始まったとあり、軍事情勢に合わせて、拡大と改修を繰り返し行われた事が記されています。が、しかし天正10年(1582年)島津氏が肥後に侵攻し、古麓城は島津義弘預かりとなって、島津家臣の平田光宗が駐在しています。豊臣秀吉による九州征伐では、島津氏は豊臣軍に押され退却と南下。豊臣秀吉は古麓城に数日入城したと云われます。この際に城内でキリスト教の宣教師、ルイスフロイスと面会していて、ルイスフロイスは、古麓城から眺めた八代の風景を記しています。その後、史実の通り肥後国は佐々成政が治めていますが、『肥後国衆一揆』の責任を問われ自刃。肥後南部の宇土、益城、天草、そして八代は小西行長に宛行われました。小西行長は、城代として、小西美作行重を古麓城に配置しますが、小西行長は新たに麦島城を築き、古麓城は廃城となっています。

見所は各峰に配置した城塞群で、その城域は広大です。戦国時代末期に造られたであろう四重堀切、二重堀切など、時代感の交錯する遺構は非常に良く残っています。

2024年11月27日 甲斐蔵人頭富士之介
古麓城、麦島城、八代城と合わせて八代城跡群として国の史跡に指定されています。麓の西光寺の少し奥の登城口(大手)に駐車場があり、解説板が有ります。

比髙140m程の山城で道は荒れていますが15分程で登ることができます。山頂には東屋と解説板があります。また周囲にはいくつか山城があり、時間があれば遊歩道で巡ることができるようです。

山頂までは郭以外遺構は見られませんでしたが、更に進むと堀切があるようですが、時間が遅く見に行きませんでした。

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