同田貫屋敷
同田貫屋敷([鞠智城 寺社・史跡])
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同田貫屋敷の口コミ情報
2022年07月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
※凄くプライベートな口コミなんで読まなくてもよいです。
同田貫屋敷は鞠智城の西方約1.1km、標高約138mの緩斜面上平場に存した刀工の屋敷です。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…熊本県道18号線、菊池鹿北線から鞠智城へ向かう途中にあるので車では行けます。
「肥後の同田貫」で現代でもマニアに親しまれる日本刀を産んだ同田貫は永禄年間(西暦1558年〜1570年)頃から活躍した刀工の一群、個銘は殆ど無く美術品的価値も殆どありまてん…じゃぁなんで人気があるの?みたいな感じになってしまいますが、豪刀なんです。質素で質実剛健、手に取ってみると鉈のような印象を受けます。
明治十九年(西暦1886年)十一月十日に行われた後に「天覧兜割り」と呼ばれる鉢試しにおいて江戸の剣客、直心影流の榊原鍵吉はこの同田貫の一振りを用いて明珍作の十二間筋の兜に切り口三寸五分、深さ五分の切り込みを入れて伏見宮から十円貰いました。明治天皇も思わず感嘆の声を上げられたそうです。歴史小説の傑作を次々と産み出した津本陽先生の短編、「明治兜割り」に警視庁撃剣世話掛の逸見と上田が失敗する中、最後に登場した鍵吉が見事成功する様は当時の世相と鍵吉の心情を絡めて繊細に書き出した剣豪小説の地味な傑作、疑いを持たれる前に言っておきますがかずりは何回も読んでます。
何でこんな屋敷跡を訪れたかと言うと、実家にはこの同田貫の一振りがあるんです。実家は太平洋戦争終結頃までとある流派の道場館でして、この御縁からか実家には持ちきれなくなった日本刀が集まって来ていました。正直、数打物が多く引き取るのを断る場合が殆どですが、近在の老婦人が持ち込んだ一振りがこの同田貫でした。油紙に包まれて土中に埋められていた(戦後…に謂わゆる巡査から没収されるのを防ぐため。)らしくぼろぼろでしたが、研ぎに出す(25万円…)と痩せはしたけど流石の豪刀が復活しました。
鞠智城の温故創生歴史館の展示資料で同田貫屋敷の存在を知り、職員の方に位置を聞いてから(困らせやした。)訪ねました。肥後で産まれた豪刀が幾多の人の手を経て武蔵の実家に残る事を考えるととても感慨深く、思わず目頭が熱くなりましたが泣いてません。屋敷的にはただの雑木林っす。城友さん、雨の中ありがちょ。