小山城
小山城([長嶺城 周辺城郭])
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小山城の口コミ情報
2025年11月16日 龍馬備中守【】
熊本県熊本市東区の神園にある【小山城】♪
小山山の標高189mに立地する城郭は、城めぐりにある長嶺城の南東側、直線600mの位置に存在します。白川左岸南東方で託麻台地の北部に位置し、長嶺城同様に熊本平野が360度見渡せます。地名は御山の意で、山の尊称と考えられていますが未詳です。小山城の南麓にある楳谷寺より出土の、正平10年・文安3年の五輪塔の残片、天文7年の楳谷寺宝篋印塔、正平12年の諏訪神社彫刻塔婆や、国分寺の平瓦・丸瓦を出土する小山窯跡などがあります。その他には中世の御船塚遺跡、縄文から弥生時代の遺跡である中原道明遺跡・小山上遺跡・中山遺跡などが地内に残ります。
この小山城跡は早岐一族の居城と伝わりますが、築城年など不明です。近隣にある、長嶺城の支城群とは思われます。
小山は小山郷として鎌倉期から見える郷名です。託麻郡六箇荘の内となります。小山村ともあり、建保4年(1213年〜1219年)将軍家政所下文案(詫摩文書)に『肥後国六箇庄小山村住人』とあり、源業政が当村の地頭職に補任されています。以降の安貞2年(1228年)から亀若殿母御前が小山の地頭代職となり寛喜3年(1231年)には沙弥蓮念から女子天女御前へ、延応元年(1239年)には『源のてこぐま』なる者に譲与され、その後は早岐盛実に譲られ、建長3年(1251年)には源清基に渡っています。源清基は早岐清基(法名正心)を名乗り、正和3年(1314年)には、これを子息の太郎入道正円に譲りました。しかしこれを悔い、今度は孫の菊池九郎隆信を養子として譲与します。同じ頃、地頭・早岐清基代隆信と六箇荘惣追捕使給主水・原孫四郎宜孝代行信との間に相論が起こっています。
正和5年(1316年)の関東下知状案によれば『肥後国六箇庄小山郷』と見え、惣追捕使権が当地に及ぶか否かをめぐって争われていますが、早岐隆信方の新恩地である当地は権限外である、という主張により、和解が成立しています。
一方地頭職は、南北朝期に入り、康永2年(1343年)早岐隆信の子・武宗から養子の詫磨孫一丸能勝に譲与されています。しかし康永3年には、当村地頭職3分の1と『おやまのやしき六かしよ、幷ちんのまへのはらよりミなミ、おなしき田地四丁五反』を正円の子・早岐六郎九郎秀政の訴えにより和与するも、早岐武宗はこれを認めず、貞和4年足利直義下文によると、足利直義方に参与した事で、当村地頭職を安堵されています。
早岐氏の安堵状はもう少しありましたが、こんな所でしょうか。目まぐるしく変わる変わる、領主層でありました。鎌倉時代から南北朝時代頃の話でした。
小山山の山頂には堀切が見られ、山麓には居屋敷・馬場前の地名が残っていて、コレは小山城にちなんだものと伝えられます。
また、天正9年に島津軍が合志郡の今石城を攻めた時の屯所であったとも云われます。









